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1980年、大阪の街外れに「シティポップ」なんて存在しなかった(「OSAKA TEENAGE BLUE 1980」に寄せて)

「シティポップ・ブーム」、とりわけ、松原みき『真夜中のドア~stay with me』や竹内まりや『PLASTIC LOVE』を起点とした、令和的な「シティポップ」に対して、特別な感慨はない。

ただ、魚の骨のような何かの物質が、胸の奥に突き刺さっているような違和感を持つ。

違和感の正体は「もしかしたら、当時を知らない今の若者は、日本全国が、『シティポップ』を手放しで受け入れる『シティ』のような状態だったと思っているのではないか」という疑念だ。

それは間違い。

これに「1980年代=バブル」という、誤った形容が上乗せされる。これも間違い。少なくとも80年代の前半は「バブル経済」の影も形もない(注:松原みき『真夜中のドア~stay with me』の発売は79年)。

「『シティポップ』を手放しで受け入れる『シティ』」は、東京のどこか、山手線の内側などに存在したのかもしれないが、日本全国のほとんどは、そんな場所ではなかったと断言できる。

そしてもちろん、私が生まれ育った大阪の街外れも、決して『シティ』なんかではなかった。

校内暴力や、受験地獄、いろんな差別、そして貧困をあからさまに目の当たりにしながら、私は、松原みきや、竹内まりや、山下達郎、オフコースの都会的でキラッキラした音を聴いていたのだ。

キラッキラした音とベッタベタな現実の狭間――それは、この日本のどこかにあると言われる架空都市=「TOKYO」と、この呆れるほど退屈な現実都市=「大阪」の狭間。

どうやって聴くか――エアチェックしたカセットテープで聴くのだ。

「エアチェック」というと、今やオヤジがほのぼのする懐かしワードの1つだが、私たちがそれに没頭した理由は、ほのぼのとしたものではなく、LPが2,500円、シングルが700円と、単にレコードが高くて買えないから、FM雑誌とにらめっこしながら、番組を狙い撃ちして録音しただけのことだ。

「OSAKA TEENAGE BLUE 1980」

道路は吸い殻で溢れていて、トイレは和式ばかりで、町工場から有害な空気が漂っていたのか、何だか耐えきれない匂いがしていた大阪の街外れで、ヤンキーに見つからないよう、声を潜めて聴いていた「シティ」な「ポップス」のことを表す連載小説企画を立ち上げます。題して「OSAKA TEENAGE BLUE 1980」。

触れ込みはこんな感じ。

――新連載「OSAKA TEENAGE BLUE 1980」を立ち上げます。これは、当時の言葉で言えば「ニューミュージック」、最近の言葉では「シティポップ」を、全然「ニュー」でも「シティ」でもない、大阪の古ぼけた街外れで、校内暴力や、受験地獄、いろんな差別などに圧(お)しつぶされそうになりながら、息を潜めて聴いていた私… のような、ある少年のお話です――。

キッカケとして、岸政彦さん、柴崎友香さんによるこの本が面白かったことがあります。これの東大阪版、河内版、音楽版という手触りを目指します。

もちろん私の「音楽私小説」としてのデビュー作、『恋するラジオ』の続編でもあります。もっと時代を絞って、もっとあけすけに書いていきたいと思います。

これ、突然思い付いたものですので、書籍企画として、レールが敷かれているものではありません。ですので、ご興味がある版元の方がいれば、お気軽にお声がけください。

ちなみに次回は、「テクノカット」にしようとする中3の私と、実に大阪っぽい、ある理由でそれを許さない母親とがぶつかるという話です。

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