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帝釈天と阿修羅

今回の話はうろ覚えな部分が多々あるので、
実際と異なっているかもしれない。

神話や仏教、またそれにまつわる芸術に昔から関心があった。

大学で哲学を専攻していた頃も、それらのテーマを中心に学んでいた。



仏教における守護神に、帝釈天と阿修羅というのがある。

帝釈天とはヒンドゥー教のインドラに由来する武運の神で、とても荒々しい気性だった。

ある時帝釈天は、同じ仏神である阿修羅の娘を娶ろうと強引に連れ去ってしまう。

娘を奪われた阿修羅は激怒し帝釈天に戦いを挑むが敗北、何億年も負け続け、そのまま天界から修羅道に堕とされてしまった。


その後、阿修羅は釈迦の説法により怒りを手放して改心し、仏教における守護神となる。

帝釈天は上記の事柄から力の神として柴又帝釈天などで広く信仰を集めることとなった。


ーーーーーー以上が帝釈天と阿修羅の戦いの寓話である。


この話を最初に知ったとき、自分は煮え切らない違和感と阿修羅への同情を覚えた。


元々帝釈天の悪行により怒った阿修羅は敗北し、勝利の日の目を見ることがないまま改心させられ守護神となるって…
現在進行形で哀れではないか。

それに、当の帝釈天はヒーローのように崇められ、市井の人々の信仰の対象となっているのだ。


さらに後味悪い事項を述べるならば、
元々阿修羅は娘を帝釈天に嫁がせたいと思っていた。
それを、その前に帝釈天が無理矢理奪い去ったのだ。

阿修羅といえば正義の神である。
普通の人間ですら許し難いところの仕打ち、正義に反した行いに義憤することはごく当たり前ではないか。


悪事をはたらいた帝釈天は力を以て正義を打ち負かし、相手を修羅道まで転落させる。

そしてそのまま武運のご利益で慕われている。


つまり、阿修羅はメタ的な意味でも今の今まで不憫な思いをしているのだ。

世間では勧善懲悪のストーリーが人気だが、
古代から続くこの戦いは、寓話の枠の内においても外においても、善が勝つことのないまま現在まで続いている。


世の中、全ての事象がスカッとJAPANにはならないということだ。


だが…自分は納得できない。

何も悪いことをしていないのに突然身勝手なもらい事故をしてしまった阿修羅。
恩をかけようとしていた相手に仇をもらった阿修羅。

そんな彼が修羅道に落とされる道理がどこにある?

そして「あなたが改心しなさい。怒りを鎮めなさい。」という釈迦からの追い討ち。


寓話では阿修羅は「わかった!」とあっさりしっかり改心し守護天神になったわけだが、
なんだかストーリー展開上都合よく扱われただけのようにも見える。


一度ぐらい、帝釈天を逆襲して打ち負かすなり詫びを入れさせる描写があっても良かったのではないか。

それを経た上での「そこからは2人仲良く暮らしましたとさ。めでたしめでたし」ならまだ理解できる。


ヒーローより脇役、
日向草より日陰草に感情移入しがちな自分は
どうしても阿修羅の側に肩入れしてしまうのであった。


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