花組公演 「冬霞の巴里」ーモーリス-

モーリス

この人はお芝居が好きな人だと感じた。だってモーリスのお芝居はほんとに細かくて観ていてとても面白いのだから。

少年シャルルの「悪党になるんだ」という台詞からのお芝居はもちろんのこと、オクターヴの家にエルミーヌを連れてきたあの場面。モーリスはちゃんと潜入捜査している。初日近くはあからさまにしっかりと、楽に近づくにつれてどんどん細かく、観客の私たちにもわからないように…とても面白い。焼き栗売りの場面も興味深いお芝居をする。ここはオクターヴに夢中であったのでまた観て、考えてみたい。映像に残っていると嬉しいのだが…

のにも関わらずアンブルのカフェでは他の人たちと同じようにとてもカッコ良くおどるのだから…宝塚って、男役って、モーリスって、凄い。

台詞から見るのも面白い。エルミーヌがオクターヴの家に行くときモーリスは近くにいたからということで案内をしている。やっぱり近くでオクターヴの下宿を見張っていた。そして、ヴァランタンの「つけられている」との台詞。

見えないところまで見せてくれるモーリスのお芝居とても面白くて好きだ。


二人のモーリス

「僕もオクターヴの同業者」

「あそこにオクターヴ君も…」

前半と後半でモーリスはグンッと成長している。

少年シャルルからの「悪党」に反応したのはただの興味本位なのかもしれない。スクープ来た!という感じなのだと思う。

それが本当にスクープで調べていくうちに彼は変わったのかもしれない。変わったと言うとはいい意味でも悪い意味でもない。別人。

前半のモーリスは希望と期待と理想と可能性があった。後半のモーリスには何もないが何か強いものを感じる。まるで子供が大人になるように。理想と現実を突きつけられ、大人になる感じ…

きっとこの先、ギョームとともにこの世界で上がっていくに違いない。

そして、彼は染まってしまった。この腐ったパリに…染まることが悪いことではないし、それが普通であるはずだけど…

あぁ、染まってしまった…この世界に…

と思ってしまう。


モーリスと正義

この作品において正義について考える。すべての正義がいろんな方向に一直線に進んでいる。ギョームの正義、オクターヴの正義、正しいことが正義、真実を明らかにすることが正義。

正義とは何か。クラノスケの時に正義についてしばらく考えたからつい正義について注目してしまう。

モーリスは世間一般にいう正義である。悪を懲らしめるヒーロー。

でもそれは”正しい”なのか?

正しいの反対は必ずしも悪ではない。だから、それが悪だと言いたいわけではない。ジャーナリストとしてはまっとうしていることも分かる。スクープをものにしていることも分かる。

でも、でも本当にそれでいいのかな。

その道を進んでいった先はどんな世界が見えますか?

私が視えるのはギョームの世界。人を踏みあがってきた世界。綺麗ごとだけで成り立つ世界が存在するわけではないけど、

もし、もしもモーリスがふと立ち止まり振り返ったら、正義について、正しいについて考えた時、彼はどう思うだろう。どう感じるのだろう。

その先のモーリスのお芝居が観てみたい。何を感じ、何を思い、そしてどう演じるのか。とても気になる。観たい。

いつか魅せてくれる日を気づける日を信じ願って…



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?