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ちょっぴり老眼きてるかもだけど、わたしは物書きになりたいの。

「ライター契約については、3月末までとさせてください」


またダメだった。今回の業務委託は6ヶ月で終わった。

「ライターになりたい」

そう思ってスタートさせた業務委託やクラウドソーシングでの記事執筆。

Instagramで知り合った個人事業主の方は、1年くらいは続いたけど、チャットだけのやり取りでいつしか認識の齟齬が生じるようになり、契約終了となった。

去り際に送られてきた


「あなたじゃなくても、他に書いてくれる人はいますから」



の一言は、何か不都合なものを飲み込んでしまったかのような重苦しさを、胃の辺りに残した。


その後のクラウドソーシング案件は、熱意を持って進めていたインタビュー企画のウェブサイトが突然閉鎖となってしまい、2回で終了。

その後の案件はどうにも筆が進まなかった。


そして、冒頭の件に至る。


良かれと思ってやったことが裏目に出てしまったときのやるせなさといったらない。

時間を巻き戻せたらいいのに、と思ったこともあったけど、人との相性という点から見れば、遅かれ早かれ、こういう結果になったのだろう。


あのときの私の技量不足や想像力の至らなさは、時間がたった今なら冷静に受け止められる。

それでもやっぱり、理由が曖昧なまま契約を切られたり、「あなたじゃなくても代わりはいますから」と、自分には価値がないように扱われたりするのは、悲しかった。

それでもなぜか、ライターになることを辞めようとは思わなかった。

経験がないなら作るしかない。

そう思って、インタビューを始めた。好きなことを仕事にしている友人知人20人ほどにインタビューをして記事を作成し、noteに公開。ライティング講座の受講も始めた。


それらの経験は間違いなく、今の糧になっているのだけれど、その当時は「ライターとして食べていく」という実感を持てないまま、暖簾に腕押しのような、まるで特大の豆腐に腕を抜き差ししているような状態が続いた。






「若い時の苦労は買ってでもせよ」


なんて、もう時代遅れの考えなのかもしれない。

そもそも、アラフォーの私は、若くはない。笑いジワが消えずに残っている鏡の中の自分を見て、

「これがほうれい線というやつか」


と思うくらいの年齢ですから。


だけど、若くても、若くなくても、夢は持ちたいし、そこに向かって進みたい。

例えていうなら、ジェンガみたいなもの。まだまだ積み上げられるピースは残っている。

でもこれは強がりでもあった。


危機感にも似た焦りも感じてたから。


このままやっていれば、ほんとにライターになれるんだろうか。


自分の書いた原稿に直接「赤入れ」をしてくれる環境がほしい。

そういう場に身を置かないと、何が良くて何が良くないのか判断できないんじゃないか。

1人でジタバタしながらどんどん時間が過ぎていっちゃうんじゃないかと、ぐるぐると想いが巡った。


「10年後に、どうなっていたいの?」


そう問いかけたとき、自分の書く文章で生計を立てていきたいと思った。

未来を決めたら、進む道は一つだった。





メディア企業で働き出して9ヶ月。

ほぼ毎日、記事を書く日が続いている。自分が望んだ未来に進めたわけだけど、私の文章は上達したのだろうか。満足のいく日々を送れているのだろうか。


答えは半分YESで、半分NO。



記事の形式や届けたい内容による執筆スタイルの違い、盛り込むべき情報の精査などは理解できるようになってきた。

多少の直しはあれど、真っ赤になった原稿が返ってくることもない。

合格点は取れるようになってきた。

だけど、だんだん慣れてくると、合格点を目指すだけではダメだと思うようになった。

「私が読み手だったら、こういう文章を読みたいか?」


という観点で見ると、何かが足りない。

なんだろう。何が足りないんだろう。


そんなとき、休憩時間にイヤホンを装着し、嬉しそうに画面に向かう同僚が目に入った。

その「何か」を知るきっかけを教えてくれたのは、私の向かいに座る


トリリンガル才女、Cさんの書く文章だった。




日本語、英語、中国語が堪能な台湾出身のCさん。

冒頭からグッと引き込まれる筆力と思わず込み上げる笑いを含む記事は、社内の評判も高かった。


特に私が惹かれるのが、語彙の幅広さとその表現力だ。



例えば、日本庭園の説明。

心静かにめぐる庭園で、視点を変えながら池を中心に回遊すると、配石や樹木が異なる表情を示してくれるに違いないです。どの季節でも美しくあるように造られた古の庭園を、ぜひ回りながら細部に宿る幽玄美を実感しましょう。

そこにある茶室の説明(一部)

煩悩を忘れ去るような歴史ある庭園をめぐり、茶室にて静寂な時間を


一部抜粋なので伝わり切らないかもしれないけど、まるでその庭園の中や、茶室に足を踏み入れたような感覚を覚えた。

私にはこういう表現は思いつかない。

日本語検定1級の実力が感じられる語彙力と表現力だ。

日本の文化や慣習を外部から見ているという視点もすごく面白くて、Cさんの取材記事が社内チャットで流れてくると、つい読んでしまう。


そしてもう一つ、Cさんの文章の魅力はその熱量にある。


語学は堪能だけど、シャイなCさんの口数は決して多くない。だけど「推し」の話になると話は別。それは文章でも明らかだった。

Cさんの実力が如実に現れる「推し活」記事は、クライアントの商品紹介をしながらも、Cさんの推しへの愛情が伝わる読み応えのある内容だった。特に「推す人」がいない私でも、こんな風に人を追いかけられたら、楽しそうと思わずにはいられない。


例えば、アクセサリーをカスタムオーダーできる企業の紹介記事は

人生4割くらい推し活に励んだ「推し活ガチ勢」のわたしですが、日本に来てからは、「推し活グッズ」の奥深さに驚くばかりです。推しぬい、バッジ、アクスタなど直接的に推しを拝めるグッズもあれば、推しの色、即ち「推しカラー」を活かした雑貨や、アクセサリー、バッグなど、生活に溶け込んだグッズも数々あるなんて、日本に来る前は想像もつきませんでした。

推し色の尊い輝きを身につけてライブに参戦するのはもちろん、日常生活の服装にも合わせやすいデザイン

待ちに待ったお届け日を迎え、好きな曲を流しながら開封の儀を執り行いました。画面越しのシミュレーションを遥かに超えた愛しさで、丁寧な手作業による温かみのある可愛らしい表情をしていらっしゃいました。とても軽く、長時間でも着け心地が良かったので、ライブ中でも思う存分に全力で飛び跳ねられるでしょう(個人差あり)。


愛情と喜びを感じませんか??



Cさんのデスク周りには、推しのカレンダーやグッズ、文房具などがきちんと整理されて殺風景なオフィスを彩ってくれる。

私と真向かいの位置にある彼女の机に置かれたスタンドタイプの日替わりカレンダー。その後ろに描かれているアニメキャラクターのコミカルなメッセージを確認するのが、毎朝の楽しみになっている自分にも気づいた。


Cさんの文章やデスク周りを見て、つい口元がゆるんでいる自分に気づいて、ふと思う。あれ、この感じ、何かに似てる。




ヨシタケシンスケさんだ。



特定の推しなんていないと書いたけど、私にだっているじゃないか。絵本作家のヨシタケシンスケさん。

ヨシタケさんの絵本やエッセイ、対談集を読んでいるとき、私は笑っている。この感覚が、Cさんの文章を読んでいる時と近いと気づいたのだ。


初めて手に取ったのは、息子の出産祝いでもらった「もうぬげない」だった。


子どもの成長は瞬間風速的にあっという間だと、過ぎ去ってみて気づく。


ある時期にしか見られないびっくりするような言動。思い出として振り返ると笑い話になるけれど、その当時は必死すぎて、「なんでこんなことするかな…」と白目を剥くことも多かった。だけどそれは、心に余裕がなかったから。


味噌汁を頭からかけられたとか、

ビー玉を鼻に突っ込んで取れなくなったとか、

スプーンを落とす遊びと勘違いしているのか、拾ったのに落とされ続けるとか、

真夏に長靴を履きたがるとか、

子育て中に発生するエピソードは、当事者なら大事件だけど、他人から聞くと笑ってしまう。


それは、ある程度の距離感というか、キャパシティに余裕がないと、大ごとに捉えてしまうからだと思う。

もしくは「はいはい」と見過ごしてしまう。


心の中で、すみっこに追いやられていたささやかな幸せ。


それらをすくい取って、かけがえのない時間だったんだと気づかせてくれるのが、私にとってのヨシタケシンスケさんの絵本だった。

「もうぬげない」「それしかないわけないでしょう」「みえるとかみえないとか」「もしものせかい」「もりあがれ!タイダーン」「メメンとモリ」は、全て我が家の本棚にある絵本たちだ。





表紙を見るだけで、内容や絵が浮かんでくるほど読み込んだ本たちを眺めて、ハッと気づく。


私は、笑いを生み出す文章が好きなんだ。だから自分も、笑顔を届けられる文章を書きたいんだ。





思わずクスッと笑える日常や、こういう人いるよねっていう人間の性みたいなものとか、ぐるぐる考えても答えの出ない哲学的な問いを投げかけてくれるヨシタケさんの本。

こういうエッセイや本は、人によってはそこまで必要ではないかもしれない。

コロナ禍でよく言われていたいわゆる「不要不急」のカテゴリーなのかもしれない。

確かに、人の日常を綴るエッセイ類は、毎日の3度のご飯とは違い、なくても生きていける。どちらかと言えば、おやつやスイーツみたいな立ち位置といえるかもしれない。それがなくても、生命維持は可能だからだ。


だけど生活に彩りをもたらすには必要不可欠だ。そして少なくとも私にとっては、すごく、すごく大事で、人間らしい暮らしに欠かせないもの。

人間の三大欲求と同じくらい、と言ったら、大袈裟すぎるかもしれないけど、生存に必要最低限な「呼吸」と「排泄」の次くらいには来ると思う。


生命維持としての生存ではなく、人間らしく、自分らしく「生きる」ためには、文章との関わりは欠かせない。

それくらい、大切なものだと思っている。



そしてもう一つ気づいた。

私が書きたいもの、届けたいものは、ご飯としての文章ではない。

おやつとして、楽しんでもらえる文章だということに。


例えていうなら、スコーンのような。モソモソしてて、一口頬張ると口の中の水分が一気に奪われるあの感じが、実は好き。粉の味がちゃんとして、小腹も満たせて、素朴でシンプルなスコーン。カフェのカウンターに瓶詰めで置かれていたりすると、つい買ってしまう。


そんなスコーンみたいな文章を私は書きたいし、届けたいと思っている。

やっぱり、笑顔になってほしいから。

ほんの一瞬でもいいから、心がほぐれてほしいから。



おやつは、生存に絶対に必要かと言われたら、そんなことはない。


エッセイだって、それがなかったら死んでしまうかと言われたら、きっとそうではない。

だけど、人間はただの生命維持装置じゃない。


感情がある。

生存と自分らしく生きることは違う。

だから私は、必需品ではないけど、あったら嬉しいなと思える文章を書いていきたい。


それが私の書く理由なんだ。



最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

「私はなぜ書くのか」このシンプルだけど壮大な問いは、夢にも出てくるほど、しばらくの間、私の頭を悩ませ続けました。

悩むなんて書くと、ネガティブな印象を受けるかもしれませんが、こんな風に一つの問いを頭の中で転がし続ける感覚は、久しぶり。これまで書いてきたnoteを読み直して過去を振り返ったり、ノートにひたすら想いを書いたりして、頭と心を整理する時間に夢中になりました。


そして、今の私がたどり着いた答えが「おやつみたいに、笑顔を届ける文章を書く」こと。

これが、私の書く理由でした。

そうやって心が決まると、今の自分がとてもありがたい環境にいることに気づきました。 


「見方が変わると、行動が変わる」とは7つの習慣でも言われていますが、本当にその通りで、それからメディア企業で書く記事、1つ1つへの向き合い方が変化しています。


だから、このコンテストに応募できたことに、とても満足しているし、感謝しています。

最後に。大好きなヨシタケシンスケさんの絵本の言葉をお借りして、終わりにします。

ちょっぴり老眼かもしれないけど、
いつか、本を出したいの。
そして、物書きを仕事にしたいの。

読んでくれた人に笑顔を届けるため
そして、自分も心から笑えるように。

ありがとうございました。

リアルにかみはくちゃくちゃな人。
夢は看護師さんからユーチューバーに変わりました。


ありがとうございます! サポートいただけましたら、より良い文章を書くために、書く以外の余白の時間の充実に使わせていただきます◎