数人で読む外国文学2020 リスト


数人で読む外国文学
第二回


2020年、新型コロナウイルスの流行により、遠出すること、人に会うことが制限され、家の中で過ごす日が増えるようになりました。直接は会えない人の顔を想像しながら「体の調子はどうですか」と、電話やSNSで確認することも多くなっていきました。
そんな中、書店の仕事をしていて目についたのは、わずかですが、詩集の売り上げが伸びていることでした。不安な時に、長い文章よりも気にいった本の、過去に読んだ同じフレーズ、同じページを、何が書いてあるかわかってはいても、何度も何度も読み返してしまうことがあります。言葉のお守り、とまではいきませんが、そのような意味で需要が増えているのかな、と考えたりしました。
「数人で読む外国文学」第二回目を、なんとか閉店前に開催することができました。テレワークのさなかに選書して頂いた方もいらっしゃいます。顔を見てお会いしたことのない選者の方も中にはいらっしゃいます、しかし、その方の文章のくせ、なぜその本を選んだかについての論考を何回も何回も読んでいると、不安だった心が徐々に落ち着いていくのを感じました。すごく不思議だと思いました。今回、当店のHPと、選書にも参加して頂いた小野菜都美さんの「ルリユール書店」のHPで、このリストは共有される予定です。また、講談社さんの群像6月号の特集、最新翻訳小説地図に記載されている選者さんたちの本も、今回、全てではありませんが並べさせて頂きました。ひとりで過ごす時間が読書によって、少しでも落ち着ける、豊かなものになったら、こんなに嬉しいことはありません。
(ジュンク堂書店 福岡店)

フェアは6月30日の閉店まで2階壁面Dコーナーにて開催



小野菜都美【忘れない】


小野菜都美 「人生の伴侶となる本と出会える場所」を目指し、北九州若松区に『ルリユール書店』を設立。(現在は予約制にて営業されています)


ルリユールの語源、もう一度結ぶ、が示すように、繰り返し読まれる本を提供したい、と、ルリユール書店さんのHPには書かれています。
小野さんの、誠実で他人のことを思いやるお人柄と、意志を感じる力強い文章に魅了され、この度依頼をさせていただきました。選書の文章を読んでいると、小野さんがあらゆる土地の環境や、そこに暮らす人々にまで常に思いを巡らされている様子が伝わってきます。

エトガル・ケレット『あの素晴らしき七年』秋元孝文訳(新潮社)
イスラエルを正しく理解していると言える日本人はどれくらいいるだろう。こうした理解の困難は、時に人を理解から更に遠ざけてしまう。彼の作品はそんな隔たりを一足で飛び越え、私達の隣に座って話しかけてくる。そして私たちは異文化の中に共感を見出すのだ。これこそ外国文学の力。本書収録の「ジャム」は21世紀の名作と思う。(小野)

ローラン・ビネ『HHhH −−−プラハ、1942年』高橋啓訳(東京創元社)
フランスの研究者ビネが、第二次世界大戦時のチェコスロヴァキアによる対独運動について書いた「本」。これは「歴史小説」であることを拒み、歴史を語ることの困難にのたうち回りながら、それでも語り伝えようとする試みの軌跡である。歴史を都合よく歪める本が現代をさらに歪ませる今、この本のためらいを見て欲しい。(小野)

ハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』赤根洋子訳(みすず書房)
ナチス政権下を生きた作家が、実在したレジスタンスの夫婦の活動を元に、あえて資料を調べ上げることなく終戦直後に書き上げた遺作。今日、史実に虚構を交える行為は危険だが、ここではむしろ虚構であるはずの台詞や語りに作者の魂が宿り、それがこの小説を偉大なものにしている。歴史に対する物語の根源的な力を秘めた作品。(小野)

エマニュエル・ボーヴ『きみのいもうと』渋谷豊訳(白水社)
文学史が黙殺しようとも読者が絶えず、もうすぐデビュー100周年。翻訳家二人が「ノーベル賞作家」になろうとも、本人はただの「ダメ男小説の人」。権威ではなく作品による心の交流だけで読み継がれてきたボーヴは、読者と最も幸福な関係を築いた作家の一人だろう。本作は彼の、生まれたての人間の様な眼差しに満ちた一冊。(小野)

マルセル・エーメ『エーメ ショートセレクション 壁抜け男』平岡敦訳(理論社)
奇想天外、抱腹絶倒、そんな言葉が似合う作家だが、彼の作品が親しまれてきた理由はもっと別のところにある気がする。子どもや蔑まれてきた人々を丁寧に描き、時に願いにも似た結末を用意する。己の文学的才能を彼らに捧げたようなその描写に泣いてしまう。邦訳が途絶え、忘れられるかと思っていた折、新訳が出て嬉しい。(小野)


野村玲央
【指差せないものについて書かれた文章】


常に揺らぎ、形を変え、ぼやけ、見ようとすると霧散してしまう何か、しかし非常に重要な何かについて書かれた作品たちです。

野村玲央/1993年生。音楽や映画、ノンフィクション等幅広く活躍するライター。福岡・本のあるところajiro元スタッフ。

野村さんは軽快に話している言葉と、落ち着いた書き言葉が全く違うようでいて、実はある部分でものすごく密接に繋がっているのです。すごく面白い人だなぁという印象を受けました。それは、この選書に、如実に表れている気がします。野村さんの、何かを見極めようとする姿勢を見ていると、背筋が伸びます。新しい本を手に取る時、野村さんみたいに読めたらな、と心から思います。

ポール・ヴァレリー『ムッシュー・テスト』清水徹訳(岩波文庫)
世に存在する興味深いアイディアはどれも、放っておけば数分、数時間で消える“異常な”思いつきだ。人間はそれを記録し、明日のために保存しておこうとする。そのように考えるヴァレリーのもとに、“異常な”もう一人の自分が現れる────メタフィジカルな文学としても、非常にワイルドな創作論としても読める怪作。(野村)

レベッカ・ソルニット『迷うことについて』東辻賢治訳(左右社)
去年刊行ながら、オールタイムでもベストの一冊。『説教したがる男たち』などでアクティヴィストとして有名な彼女だが、非常に洗練された人文的エッセーこそが本懐だ。肌に残った下着の痕、古い世界の写真、私たちと遠景を隔てるあの青い光……美しいと同時にどこか幽霊的なモチーフをくぐり抜けてゆく自伝的作品。(野村)

イルマ・ラクーザ『ラングザマー 世界文学で辿る旅』山口裕之訳(共和国)
ラクーザは加速する世界に抗し、減速すること・停止すること・眠ることなどをテーマに様々なテクストをより合わせてゆく。いわば世界の再生速度を落とし、ピッチを落とし、スクリューをかける。その先の景色は今とても重要である。(野村)

ジェラール・マセ『記憶は闇の中での狩りを好む』桑田光平訳(水声社)
写真は現像する際、暗闇の中で像を焼き付ける、光が入るとその像は失われてしまう。マセはそのあり方を、朝がくると失われる夢のようだという。暗闇、写真、イメージ、そして記憶を巡る詩の断章たち。(野村)

サミュエル・ベケット『名づけられないもの』宇野邦一訳(河出書房新社)
三部作の最後にして最高傑作。三部作といっても、この作品から読んでも全く問題ない。前後の繋がりや設定などに意味はなく、ただ何かが動いていく感覚だけがある。生命の奇妙な輝き、おかしみ、不思議な明るさがページを横切っていく。(野村)


   
ソナミアラエ
【ジュンク堂書店福岡店の棚で見た本たち】

以前観たイラン映画に、扉を持ち歩く男が出て来ました。彼が何故扉を持ち歩いているのかは忘れてしまったけれど、何も無い平野にぽんと置かれた扉は、何だか神秘的で、そこだけ別の世界に繋がっているような不思議さがありました。その印象は、日本の鳥居に似ています。
旧約聖書に現れるバベルは、混乱(バラル)を生じた塔ですが、レイヤードの時代でも、中東の人々はそれをバーブ・イル(神の門)と記憶していたそうです。ヘロドトスは、ジックラトには金属の球体が奉られていたと記録していますが、天から轟音と共に到来する落雷、バビロニアの神々が雷と共にその門から来たるのだという考えは、胸高鳴らしめるものがあります。書物は門扉に似ています。自由に開くことが出来るし、開かない自由もある。異なる言語、文化、歴史だとか、とにかく身近でないものたちとの出会いがあり、雷に打たれるような(比喩です)衝撃、好奇心の疼きがあります。哀しみがあります。翻訳はそうした私の衝動に翼を与えてくれます。旅をするための足を与えてくれます。大切な友人です。愛を込めて。ソナミアラエ

ソナミアラエ/福岡在住のジュンク堂ヘビーユーザー。ジュンク堂書店福岡店で購入した海外文学書の数は膨大。

文学作品と映像を自然に結びつけ、うまく目の前の言葉にされるのがソナミ先生の文章の特徴です。映画をたくさん見ていたらそういうことになる?いいえ、違います。ソナミ先生はまなこじたいが、映画のスクリーンと同じようなつくりになっているのだと思います。映画マニアではなく、映画そのものが呼吸し、天神の町を歩いているのです。「傷だらけの天使」に、「指輪なんかより靴がいいだろ。誰でも履いてるしよ」というしびれる台詞があって、見るたびに、なんてソナミ的なのかしら!と思います。

オタ・パヴェル『ボスニアの森と川 そして魚たちとぼく』菅寿美/中村和博訳(未知谷)
『美しき鹿の死』の作者としてご記憶の方も多いかと思います。42歳で亡くなったパヴェル、その翌年(1974)に出版されたチェコ語(Čeština)の作品。
幼年期から晩年に至るまでの魚釣りの記憶。それに付随する様々な出来事が、自由な心象と交ざり合って、表情を変えながら流れ続けていく川のよう。(ソナミ)

マルグリット・デュラス『ヒロシマ・モナムール』工藤庸子訳
(河出書房新社)
アラン・レネ『二十四時間の情事 (Hiroshima mon amour)』のブルーレイ廉価版が発売されたので。本書はその映画脚本として書かれたもの。
映画冒頭、冒瀆的な場面だなと感じた箇所があって、それをデュラス自身が確然と筆にしていました。本と映画それぞれが、一方の印象を決定的に変えると思います。(ソナミ)

セラハッティン・デミルタシュ『セヘルが見なかった夜明け』鈴木麻矢訳(早川書房)
ザザキ語、クルド語も話す著者による、トルコ語(Türkçe)で書かれた短編集。12篇の物語が驚く程違った印象を与えて来るので、沈んだり揚がったりしている間に、今という事を深く考え始めていました。中でもお気に入りの話は、『知った顔すんなってば  Bildiğiniz Gibi Değil』です。
(ソナミ)

ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津航訳(共和国)
モスクワの北東に位置するグリャーゾヴェツ(Грязовец)の収容所内で、1940年から囚人間で行われた、ポーランド人将校で画家だった著者によるプルースト講義。「わたしが多くを負っていた作品の思い出として」との語り出しに、アンジェイ・ヷイダ『戦いのあとの風景』のボロフスキーを重ね見てしまいます。(ソナミ)

ギョルゲ・ササルマン『方形の円 偽説・都市生成論』住谷春也訳(東京創元社)ボルヘスは架空の存在を蒐めて『幻獣辞典』を編みました。対して本書は、様々な架空都市のurbogonie(都市生成論)として、ルーマニア語(Română)で書かれました。また本書は、ゲオルギウや多くのルーマニア文学が経験した、1冊の書物となるまでの長い歳月の物語でもあると思います。(ソナミ)



倉方健作
【他者/世界からのディスタンシング】


倉方健作 九州大学言語文化研究院准教授。専門はヴェルレーヌを中心とする近代詩。共著に、『カリカチュアでよむ19世紀フランス人物事典』『あらゆる文士は娼婦である 19世紀フランスの出版人と作家たち』(共に白水社)がある。

倉方先生は、ランボーとヴェルレーヌのトークイベントでお話を聞き、今回依頼させて頂きました。イベントの時も、ユーモアたっぷりの楽しい語り口が印象的でしたが、今回も海外文学初心者が「読んでみようかな」と思えるような、楽しい選書をして頂きました。(松岡)
『ギリシア悲劇 II ソポクレス』松平千秋訳(ちくま文庫)どうしても自分の出自を知りたい!(『オイディプス王』)、アキレスの形見をもらうのは俺だふざけんな!(『アイアス』)などなど、英雄たちはひとつの思いに執着して悲劇にはまり込む。『アンティゴネ』の妥協を知らない頑ななヒロインとコミュニティの論理の対立は2500年後も読者をヒリヒリさせる。古典のパワー!(倉方)

ポール・ヴェルレーヌ『呪われた詩人たち』倉方健作訳(幻戯書房)「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの…」の詩人ヴェルレーヌによる評論集。当時ほとんど未知の存在だった異形の詩人たち、ランボー、マラルメ、ついでに自分自身も世に知らしめた。なにしろタイトルがかっこいい。同時代人の才能を讃えるのは危険で困難なものなのに今見ても紹介された6人全員がアタリという奇跡の一冊。(倉方)

ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』若島正訳(新潮文庫)
真に偉大な作家は世界中の辞書に新語を加える。ロリコン、ゴスロリも根元を辿ればこの作品。ただ、幼さを残した女性がみんな「ロリータ」になれるわけでもなく、ニンフェットに惹かれれば誰もがハンバート・ハンバートというわけでもない。なお作中の「ロリータ」は1935年生まれなので(生きていれば)今年85歳です。(倉方)

フィリップ・ロス『素晴らしいアメリカ野球』中野良夫・常盤新平訳(新潮文庫)
原題はThe Great American Novel。架空の球団を通して描かれるグレイトなアメリカのカリカチュア。発表当時はウォーターゲート事件渦中のニクソン政権下。同じく問題行動が多くグレイトグレイト言ってる大統領がいる今こそ、超大国を一塁側から野次り倒す本作を!今シーズン開幕を待ちながらぜひ。(倉方)

ダグラス・アダムズ『銀河ヒッチハイク・ガイド』安原和見訳(河出文庫)
「ユーモアSF」より「バカSF」の呼称が似合う5作+公式続編からなる金字塔の第1作。モンティ・パイソンや『Mr.ビーン』と同じ類のブリティッシュ成分が全編に染み渡る、サブカルチャーの基礎教養。google検索の小ネタとしても知られる「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」はこの本の中に!(倉方)

深沢潮
【「帰る場所はどこなのか」をめぐる物語】

深沢潮/小説家。著書に『ハンサラン 愛する人びと』(文庫版『縁を結うひと』)『ひとかどの父へ』『緑と赤』『伴侶の偏差値』『ランチに行きましょう』『あまい生活』『海を抱いて月に眠る』『かけらのかたち』など。

深沢潮さんは、数人で読む外国文学の前身となる「土地と文学」フェアでも選書をお願いしました。自己と土地との境界を越えた作品をご自身でも書かれ、選書でもシュリンクなど、土地にまつわる作品を多数執筆する作家の作品が選ばれています。自分の中の物差しは自分だけのものであり、他人によって長くされたり、短くされたりすることはないのだと、深沢さんの選書作品を読んで気付かされました。

ベルンハルト・シュリンク『帰郷者』松永美穂訳(新潮社・出版社品切れ)
心惹かれた作品に出会うと、私はその著者の小説を網羅したいという欲求が抑えられない。「朗読者」を読んで以来、シュリンクの作品は新刊を追い、既刊もほぼ読んだ。彼が描く作品世界から、在日コリアンの私が見出そうとするのは、戦争犯罪、国家の分断、越境者といった、自分の深いところにつながるものなのかもしれない。(深沢)

ベルンハルト・シュリンク『週末』松永美穂訳(新潮社・出版社品切れ)
20年ぶりに出所した元テロリストと家族、かつての友人たちがともに週末を過ごす。この物語が提示する、『思想』というものが人間関係をどう変えてしまうのか、人間関係が思想を縛るものでありうるのか、果たして大きな正義の前に小さな正義は犠牲にされてしまうのか、という問いを、私はコロナ渦中に度々考えさせられた。(深沢)

ベルンハルト・シュリンク『夏の嘘』松永美穂訳(新潮社)
嘘によって変わってしまう。嘘によって変わらずにすむ。小さな嘘。大きな嘘。悪意の嘘。善意の嘘。さまざまな嘘をめぐる7つの短編は、フェイクニュースの跋扈するいまこの時代に、あらためて「嘘」について考えさせられる。そもそも、小説とは虚構の物語だが、その「嘘」のなかに、真実や真理が潜んでいる。(深沢)

金承鈺『ソウル 1964年 冬』青柳優子訳(三一書房)
フェミニズム小説をはじめとした韓国文学の魅力のひとつが、権力や理不尽に抗う「強さ」ならば、それはまぎれもなく、抑圧された時代があったからこそ生まれたものだと思う。この小説が、時の政権がすべてを決定し、夜間禁止令のあった社会のもとに描かれたと知ると、よその国の昔の物語とは思えない。(深沢)

チャン・ガンミョン『韓国が嫌いで』吉良佳奈江訳(ころから)
レイシズム、ミソジニー、格差。うんざりして韓国からオーストラリアに行ったケナのように、私も真剣にカナダへの移住を考えたことがあった。だが逃げたところで、厄介な移民コミュニティー、アジア人蔑視、言語の苦労と、新しい葛藤は生まれる。それでも、解き放たれた心は、なんと自由なのだろうか。(深沢)


   
藤枝大
【場所からはじまる 〜ジュンク堂書店福岡店で買った5冊〜】

藤枝大 福岡の出版社・書肆侃侃房にて営業・編集を担当。書肆侃侃房では、福岡は天神に、海外文学と短歌、詩、俳句に特化した本屋「本のあるところajiro」をオープン。藤枝さんは書籍の仕入れ、イベントを担当。『数人で読む外国文学』では、ソナミさんと共に2回目の登場ですが、最近はさらにパワーアップされた印象です。

アントーニオ・スクラーティ『私たちの生涯の最良の時』望月紀子訳)青土社)ファシズムが台頭する時代、レオーネ・ギンツブルグはチェーザレ・パヴェーゼらとともに出版社「エイナウディ社」を率いていく。1943年7月、焼夷弾によって社屋が爆破されるが、一週間後には分散してあちこちで仕事を再開。8月に再び爆弾を職場に落とされるが、瓦礫のなかに出社し、机にたまった漆喰を取りはらって校正刷りの見直しをはじめたという。「テキストを守ることが人間の尊厳を守ること」という言葉も印象的な、一つの出版史でもある。(藤枝)

W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』鈴木仁子訳(白水社)アウステルリッツにとってドイツとは何だったのだろう? 建築史家の主人公は「私」に饒舌に物語る。ただ、男は孤独であり、尽きることのない悲しみに覆われている。同じ場所に留まることはできず、かといってどこまで移動しても苦悩は癒えることがない。すぐに解決する問題ではない。その重みと同一視することはできないが、われわれ誰しもがある種の存在の不安を抱えているのではないだろうか。唯一無二の、抑制された傑作。(藤枝)

ペーター・ハントケ『不安 ペナルティキックを受けるゴールキーパーの......』羽白幸雄訳(三修社)驚くほどむちゃくちゃだ。サッカーの元ゴールキーパーが主人公だが、その内面は描かれず、物理的な出来事によってのみ物語が成り立つ。とつぜん人も殺す。読者は不安にさいなまれながら、動きを追っていくことしかできない。ただ原理は一貫しているから、身を任せていると中毒になる。著者の初期の無秩序な傑作で、作家自身をモデルにしたような味わい深い後期の作品とはちがった良さがある。(藤枝)

サマル・ヤズベク『無の国の門』柳谷あゆみ訳(白水社)
「ただ、無を見つめている。私が、国境の向こうに残してきた無を」という言葉で本は終わる。シリアの作家/ジャーナリストによる本書は、アラブの春を受けて一時盛り上がったかに見えたシリア革命が、アサド政権による妨害などもあって迷走し、内戦へと向かうなかで書かれた。願った革命は果たされず、その頓挫による喪失は大きかった。後半にいくにしたがって、記録とは別様の文学の枠組みが立ち上がる。柳谷あゆみさんの翻訳がすばらしい。同訳者による、乾いたユーモアが印象的な『酸っぱいブドウ/はりねずみ』(ザカリーヤー・ターミル)も好著です。(藤枝)

ヴァージニア・ウルフ『幕間』(片山亜紀訳、平凡社)
第二次世界大戦の前夜、とあるイギリスの片田舎で野外劇が催される。英国の歴史をたどる壮大なものだ。その前段、屋敷に次第に集いだす人たちの心理描写は、相互に矢印が入り乱れてたのしい。戦争になればこの円環構造とも言える日常は、もうやってこないかもしれない。あくまで束の間の盛り上がりなのだ。不穏な時代の空気のなか、ウルフの遺作はどこへ向かうのか。見届けてほしい。(藤枝)

  
行舟文化
【行舟文化お勧めの中国文学4選】
    【ちょっと異質な「ミステリー」3選】

行舟文化/翻訳者であり、作家である張舟さん夫妻が運営されている、翻訳ミステリーに特化した出版社。最初、福岡でなぜまだこんなどこにも知られていないミステリーが、、とびっくりしました。今回、張舟さんに【行舟文化お勧めの中国文学4選】を、白樺香澄さんに【ちょっと異質な「ミステリー」3選】を選んで頂きました。選書コメントもものすごく格好良いです。行舟文化さんがこの地にあること、最新の翻訳文化を発信して下さることは、福岡の誇りだと思っています。

余華『世事は煙の如し』飯塚容訳(岩波書店)
著者が純文学の探索と実験を繰り返した時期の作品で、好評も悪評もあり、殆どの純文学と同様に大衆の興味をそそりにくいものだが、余華という作家のすごみを、この作品を読んだ後に代表作とされている『活きる』『血を売る男』を読む場合しか真に理解できない。それは恐るべき「自己打破」。しかも、一回のみではなかった。(行舟文化・張舟)

 余華『血を売る男』飯塚容訳(河出書房新社)
「どう表現する?」という文学的問題を巡って長年探索した後の集大成作。人性、純文学の技巧、意外性……どの要素を求めても満足されるが、大ヒットの前作『活きる』みたいなものを読みたい人だけが落ち込む。『活きる』の欠片もなく、「作家余華」の影すら見られない本作は、著者の恐るべき「自己打破」を雄弁に語っている。(行舟文化・張舟)

劉慈欣『三体』大森望訳(早川書房)
ハードSFとしての「ミソ」が、爆発的な情報量と意表を突く壮大な構想の連発にある。それは著者の強みでもある。『三体』は宇宙の未来を想像する小説より、地球の現実を暴き出す小説に近い。現実諸々にロマンチックなSF舞台を構築した本書はまるでSFリアリズム小説のようで、マジックリアリズム並みの重大な意味を持つと考えている。(行舟文化・張舟)

紫金陳『知能犯之罠』阿井幸作訳(行舟文化)
中国官界でしか成立しない「殺人トリック」、批判的リアリズムの筆致で描写された官僚群像、それに対照するロマン主義的な殺人鬼の造形。中国ミステリーでそれを書けたのが本作のみと言えよう。人々の琴線に触れるストーリー展開に加え、謀殺計画とその遂行をスリリングに描いたことで読者に痛快感を与える作品である。(行舟文化・張舟)

雷鈞『黄』稲村文吾訳(文藝春秋)
盲目の青年を探偵役に、実際の未解決事件をモデルにした「児童眼球摘出事件」の謎を追うミステリ。伏線を張り巡らせた大仕掛けは、単にミステリとしてのサプライズに終わらず私たちの「先入観」、視線の埒外に置いてしまっているものを炙り出す、強いメッセージとしても機能する。ある青年の成長譚としても胸打つ作品。(行舟文化・張舟)

ヒュー・ウォルポール『銀の仮面』倉坂鬼一郎訳(東京創元社)
乱歩が奇妙な味の傑作として絶賛したという表題作「銀の仮面」は、今なら約1世紀前に書かれた映画『パラサイト』の変奏曲と読む人もいるかも。同作と対になるような「トーランド家の長老」を始め、生活に侵入する「異物」の怖さを淡々とした筆致で描いた作品ばかりの、なんとも居心地悪くしかし面白い短編集。(行舟文化・白樺香澄)

ユニティ・ダウ『隠された悲鳴』三辺律子訳(英治出版)
実際の事件を基に、ボツワナの現職閣僚が執筆したアフリカ発サスペンス。呪術的な力を得るための「儀礼殺人」という主題はエキゾチックに思えるが、それを通じて描かれるのは「価値観の世代間格差」、旧弊な「伝統」から逃れられない社会の歪みという、どの国でも直面している問題意識だ。エンタメとしても一級。(行舟文化・白樺香澄)

トニー・パーカー『殺人者たちの午後』沢木耕太郎訳(新潮社・出版社品切れ)殺人罪で収監され、仮釈放となった終身刑受刑者にインタビューしたルポルタージュ。彼らが人を殺すまでの人生、そして現在について話す語り口はどれも独特で、時にその「無自覚な」狂気に肝を冷やすことになり、時に運命や人の残酷さに打ちひしがれるだろう。「罪」とは?「償い」とは?内省にも似たそんな問いが木霊する。(行舟文化・白樺香澄)


早川書房選書チーム
【さよならから はじまること】

そこから旅立つことは、とても力がいるよ
自分をつらぬくことは、とても勇気がいるよ

早川書房選書チーム/翻訳とミステリなら早川書房!近年では中華SF『三体』の爆発的ヒットは言うまでもなく、パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』をいち早く全文公開(現在は終了)、ヴァージニア・ウルフ『病気になるということ』の新訳公開など、オンラインの情報発信も話題となっている、海外文学ファンには欠かすことのできない出版社 「さよなら」という言葉のもつ美しさに沿った、一度読んだら忘れることのできない本を選んで頂いたと思います。

ロバート・A・ハインライン『夏への扉〔新訳版〕』
小尾芙佐訳(早川書房)
《目覚めた先の未来には、希望しかない》
ぼくが飼っている猫のピートは、冬になるときまって"夏への扉"を探しはじめる。家にたくさんあるドアのどれかが夏に通じていると信じているからだ。そしてぼくもまた"夏への扉"を探していた。(早川書房選書チーム)
 
エイモア・トールズ『モスクワの伯爵』宇佐川晶子訳 (早川書房)
《ホテル住まいでも…紳士の流儀を貫くこと。人をもてなし、身のまわりを整え、人生を投げ出さないこと》
1922年、モスクワ。革命政府に無期限の軟禁刑を下されたロストフ伯爵。高級ホテルのスイートに住んでいたが、これからはその屋根裏で暮らさねばならない。ホテルを一歩出れば銃殺刑。陶酔と哀愁に満ちた長篇小説。(早川書房選書チーム)
 
アンディ・ウィアー『火星の人 上・下』小野田和子訳(ハヤカワ文庫SF)
《ジャガイモがあれば大丈夫。ひとりでも孤独じゃない。》
有人火星探査が開始されて3度目のミッションで、不運にも火星に取り残されたワトニー。不毛の惑星に一人残された彼は限られた食料・物資、自らの技術・知識(あとユーモア)を駆使して生き延びていく。映画「オデッセイ」原作。(早川書房選書チーム)

『書店主フィクリーの物語』ガブリエル・ゼヴィン ハヤカワepi文庫
《「本」好きなら知っている、大切なこと》
その書店は島で唯一の、小さな書店――みなが本を読み、買い、語り合う。人は孤島ではない。 本はそれぞれのたいせつな世界。これは本が人と人とをつなげる優しい物語。全世界の「本」を愛する人へ 。2016年本屋大賞受賞作
 (早川書房選書チーム)

レティシア・コロンバニ『三つ編み』齋藤可津子訳(早川書房)
《これは"わたしたち"の物語》
三大陸の三人の女性。かけ離れた境遇に生きる彼女たちに唯一共通するのは、自分の意志をつらぬく勇気。三人が理不尽な運命と闘うことを選んだとき、美しい髪をたどって、つながるはずのない物語が交差する。(早川書房選書チーム)

「早川書房編集部 根本佳祐さんのおすすめ」

『くじ』
オールタイムベスト級の〝怖い〟短篇小説集です。著者の冷徹なまでの筆致で紡ぎだされる人間の闇は、どんな血みどろのモンスターよりも恐ろしく、深く深く心をエグってきます。映画『ミッドサマー』ファンの方々は、表題作を是非どうぞ! 忘れられない読書体験を保証します。

『コールド・コールド・グラウンド』
本書を含む〈ショーン・ダフィ〉シリーズの持ち味はなんといってもそのカオスっぷりにあります。軍事組織が交錯し、諜報機関で暗躍する北アイルランド紛争地域で起こった奇怪な事件の数々。そんな混沌の状況に独り流されまいと立ち向かう、主人公ショーンのハードボイルドっぷりをご堪能ください。

『東の果て、夜へ』
ロサンゼルスしか知らない少年イーストは、仲間たちとともに2000マイルもの旅路へ。その目的は組織の裏切り者を殺すため……。
本作でとりわけ素晴らしいのは、物語が深まる第三部とそのラスト。情景が鮮やかに目に浮かぶ小説です。イーストの旅路の果てを見届けてください。

『生物学探偵セオ・クレイ 森の捕食者』
奇抜で個性的なキャラクターを期待して翻訳ミステリを手に取る方も多いのではないしょうか。そんな読者には生物学探偵セオ・クレイがオススメです。あまりに頭脳明晰すぎて周囲を出し抜くあまり、逆に疑いを掛けられる始末。読者の想像を遥かに超えた大活躍をする第二作ともども、ぜひ追いかけていただきたい作品です。

『元年春之祭』
いま翻訳小説界を席巻している華文(中国語)小説ムーブメント。その中から2000年以上前の中国を舞台にした本格ミステリを推薦します。密室状況での殺人と、読者への挑戦状! そして、この時代を選んだからこそ描くことができた衝撃的な結末は、現代を生きるわたしたちの心にも痛切に響きます。

東京創元社 HSさん 
「読書でいろいろな国を旅する」


東京創元社/ミステリ・ファンタジー・ホラーに強いとされる出版社。創元推理文庫は創刊から60年をこえ、さらに2020年には凪良ゆう『流浪の月』が本屋大賞を受賞するなど、躍進を続ける出版社です。
今回、HSさんという、謎の切れ者の方が本を選んでくださいましたが、テレワークのさなか、自社から5冊、他社から5冊、国別になるようにきっちりと素晴らしい選書をして下さいました。これで、家にいても色々な国に思いを巡らすことができます。本の細かな特徴も、いま手にとってそこに目に見えるようです。


【イギリス】ミック・ジャクソン『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』田内志文 訳(東京創元社)
むかしむかし、イギリスには不思議な熊がいました。人間の服を着て綱渡りをする「サーカスの熊」。下水道に閉じこめられ、町の汚物を川まで流す労役をしていた「下水熊」。人間に紛れて潜水士として働く「市民熊」。彼らが人間に嫌気がさしてとった行動とは……。もうひとつのイギリスの歴史を教えてくれる奇妙な物語です。(東京創元社HS)

【ドイツ】フェルディナント・フォン・シーラッハ『犯罪』酒寄進一 訳(東京創元社)
異様な罪を犯した人間たちの哀しさ、愛おしさを鮮やかに描いた連作短編集で、ドイツ屈指の文学賞クライスト賞ほか三冠に輝きました。ドイツと日本は遠く離れていますが、魔に魅入られ、世界の不条理に翻弄される人々の姿には、共感できるところもたくさんあるのでは。国を知るだけでなく人を知るのに最適な一冊です。(東京創元社HS)

【スウェーデン】ホーカン・ネッセル『悪意』久山葉子 訳(東京創元社)
事件とは見た目どおりではなく、玉葱のように幾重にも重なり合った事実の中に、意外な真相が隠れているもの。デュ・モーリアばりの人間洞察と奥深さを備えた、5編からなる短編集。本当に人間は怖いと思わせる作品揃い。ところで、著者はスウェーデン人だが、なぜか5編中4編はオランダとおぼしき架空の町が舞台になっている。(東京創元社HS)

【旧ユーゴスラヴィア】ミロラド・パヴィチ『ハザール事典』工藤幸雄 訳(東京創元社)
旧ユーゴスラヴィアの奇才による、消えた謎の民族ハザールに関する事典の形をとった物語集。45の項目はどれから読んでもいいし、関連項目にそこから飛んでもいい。男性版と女性版があり、違いは10行。それぞれを抱えた二人が、お茶を飲みながら語り合うなんて素敵では? 沼野充義氏の解説も男女の版で異なります! (東京創元社HS)

【ベルギー】アドリーヌ・デュドネ『本当の人生』藤田真利子 訳(東京創元社)
狩猟好きなDV男の父親、夫に怯えるだけの母親。少女はそれでも幼い弟と楽しい日々を送っていたが、ある事故の後、弟は変わってしまい、父親の剥製部屋で小動物をいじめたりするようになる。少女は現実をリセットし、弟の笑顔を取り戻せるのか? fnac小説大賞他多くの賞を受賞した、ベルギー発のきらめくような傑作です。(東京創元社HS)

【アメリカ】ジェフリー・フォード『言葉人形』谷垣暁美 訳(東京創元社)
絶対に外れのない短編集を一冊教えて、と言われたら、さんざん悩んで、でも自信をもって私は「ジェフリー・フォードの『言葉人形』」と答えます。物語の詰まったガラス玉、天使と悪魔のチェスセット、甘き薔薇の耳、プリンセス・チャンの涙……綺想、悲恋、魔法、妖女、怪人と幻想文学のすべてが詰まった13の物語をお楽しみください。(東京創元社HS)

【フランス】ギヨーム・ミュッソ『パリのアパルトマン』吉田恒雄 訳(集英社)
他人同士の妙齢の男女が偶然、同じ不動産レンタルサイトでパリの超豪華な一軒家を予約。しかしダブルブッキングが判明して、同じ家で一緒に過ごすことに……。という、よくある恋愛映画っぽい導入からはまったく想像できない展開になる恐るべきミステリ! 読み終わるまで驚かされっぱなし、ページをめくる手が止まらない!(東京創元社HS)

【イタリア】ディーノ ブッツァーティ『魔法にかかった男』長野徹 訳(東宣出版)
現代イタリア文学の奇才の未邦訳短編集。なぜ今まで翻訳されていなかったのか不思議なくらい魅力的な作品が詰まっています。幻想小説の名手らしい奇妙なものから、寓話風の物語、アイロニーやユーモアが色濃く出ているお話まで、たっぷり楽しめます。装幀のモダンな格好良さもお気に入りで、長く読み続けたい本です。(東京創元社HS)


【韓国】チョン ユジョン『種の起源』カン バンファ (翻訳)(早川書房)
韓国ベストセラー作家のサイコミステリで、主人公は自宅で母親の死体を発見した26歳の男性。時々記憶障害が起こる彼は、前夜のことを覚えていませんでした。いったい何があったのか? 魅力的な謎を追うミステリ&スリラーの面白さとともに、韓国の母と息子の関係性が描かれているのが印象的でした。
(東京創元社HS)

【アイルランド】『夜更けに夜みたい 数奇なアイルランドのおとぎ話』
長島真以於 監修加藤洋子+吉澤康子+和爾桃子 編訳平凡社(2020年2月25日発行)現代文学ばかりではなく、昔から語り継がれ読み継がれてきた物語を是非。英国とはひと味違う、ケルト民族の国アイルランドならではの不思議が光る物語集。英雄フィンやオシーンの活躍にドキドキ。19世紀末から20世紀初頭にかけて、英国の挿絵の黄金時代を築いた画家のひとりであるアーサー・ラッカムの挿絵も素晴らしい!
(東京創元社HS)


福永信『おすすめの5冊』

福永信/小説家。1998年「読み終えて」で第一回ストリートノベル大賞受賞。また、2012年『ーーーーー』で第25回三島由紀夫賞候補、2013年『三姉妹とその友達』で第35回野間文芸新人賞候補となり、2015年には第5回早稲田大学坪内逍遥大賞奨励賞を受賞。編集作品に『小説の家』(新潮社)。


福永さんはジュンク堂で何回も選書フェアに参加してくださったのですが、そのたびに読者がびっくりするような面白いしかけを、常に用意してくださいました。今回のおすすめの5冊も、ただの外国文学ではなく、くすりと笑えるもの、明日が楽しみになるようなものを選んで頂いたと思います。自粛期間中に家にひとりでいると、テレビを見ていて、自分の笑い声にびっくりしてしまうことがよくありましたが、笑いたくなったとき、誰かに会いたくなったとき、次は福永さんの選書を手にとって、心から笑ってみるつもりです。

トーン・テレヘン『リスからアリへの手紙』 柳瀬尚紀訳(河出書房新社)
≪オシャレな書簡体小説! (文字どおり)≫
リスや象やアリが、手紙を書きまくる! そして手紙は外套を着て帽子をかぶり、玄関を開け、外へ出る。手紙を届けるためだ。ちょっと待って。手紙が外套を着るだって? 読者は目を疑うが、なぜ着るか、作者は説明する。「寒いからです」。作者は決して全部を書かない。読者のために余白を残す。自力でこの世界を訪ねてほしいから。(福永)


エトガル・ケレット『銀河の果ての落とし穴』(河出書房新社)
≪世界文学のチャップリン!≫ 
エトガル・ケレットの笑いと涙。自分のために話を書いてくれという友人、天使、双子、A、クレーマー、そして細胞まで。いや、もっと出てくる。登場人物達の豊かさにかけて、著者の右に出る者はいない。読者は1人で読む。作者も1人でこの本を書いた。1人と1人が(持ち味を出しあって)向き合う。2人の間に宇宙が生まれる。著者の本を読むとそんなことを思う。(福永)

ジョン・リウォルド『印象派の歴史』上下 三浦篤/坂上桂子訳(角川文庫)
≪19世紀パリのトキワ荘!≫
 印象派の面々の青春時代。印象派の歴史を書いた重要な文献でありながら、生き生きと画家達を描いた青春文学でもある。いやあ面白い。第1回印象派展を開催するために奔走する彼らの様子から「解散」までを描く下巻、これから読むと入りやすい。まだ若いメンバー達の、貧乏や観客からの誹謗中傷に、著者が未来からの励ましを思わず書き付ける箇所も。
(福永)

『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短編集』ピランデッロ 訳・関口栄子(光文社新訳文庫)
≪イグ・ノーベル賞もあげたい!≫
読者を選ぶ15編の短編小説。100年以上前の短編群だが新しい。傑作長編『生きていたパスカル』以前の初期短編から死の年の作まで、膨大な短編から選ばれた15編。「登場人物の悲劇」は、小説の登場人物達が作者のところに「面接」に来る話だが、今こそリアルかも。フィレーノ博士なる人物の著作は「距離を置くという哲学」とされるが、中途半端な存在で笑える。(福永)

トルストイ『イワン・イリイチの死/クロイツェル・ソナタ』望月哲男訳(光文社新訳文庫)
≪世界文学のトップアスリート!≫
その逞しい想像力。トルストイよ、こんなに面白かったのか!と驚いたのが、この1冊。イワンが不安へと向かって突き進む、せかせかした足取り、それは読者を「泣かせる」とか「悲しませる」を飛び越えて、死のその先へと着地させてしまう。笑えてしまうのだ。後者は、殺人を巡る語り方のパス回しが読者の心に奇妙なスペースを作る。共に大傑作。(福永)


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