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数学科の頃を思い出して

最近は工業専門学校(通称、高専)の生徒に「線形代数」の個別指導をしていて、そのための線型代数のテキストを2、3取り寄せて理論的な進め方を比較しつつ調べている。物語を自分なりに構築するのに参考になるからだ。

ところで学部の頃の線形代数の本をみつけて当時を思い出した。私は大学初年次、線形代数がとても苦手だったということを。ところどころの余白に汚い字で書きなぐったような行列の計算がある。心理的にも「イヤ」だったことが字を見ればわかる。

今でこそ個別指導塾として数学を教える側になっているが、大学生の頃の私は学部の1年次、成績は下の方にいた。

別に遊びまくっていたわけではない。ある程度、学生として(一応)真面目にやっていた方である。それだけに余計まずいのだが、当時は単位を落とさないように、その場しのぎ的に克服してきた場面もあったのを覚えている。

この記事では主に数学科の学生の方向けに何かの参考になればと思い、数学科だった頃の経験を通して今の自分が思うことなどを書いてみようと思う。

1.計算力と証明力

1年でつまずいたらこの先やっていけるのか進路としての不安はあった。

しかし、進路はともかくそもそも数学は好きだった。そして私の同期はみな単に「計算」ができるだけで本質を理解しているかはわからない。実際は「大したことはない」だろうとさえ直観していたので、私には数学が合わないのかという心配はしていなかった。

というのは、もともと数学は「計算」が全てではないことは理解していた。

それよりも「証明」を何も見ないで自分で再構成できるかという方が重要だろうと考えていた。

1年次は微積分と線型代数をやっていたので、証明力より計算力が問われた。特に計算が苦手な方だった私が成績を取れないのは、そりゃそうだろうという感じである。

しかし悲観すること勿れ。

2年次後期に習い始めた位相空間論はむしろ同期の中では比較的得意な方だったようだ。

位相空間の公理から始まって、いろいろな性質が証明される。講義を担当した教授(のちのゼミの教授)との相性もよかったのだろう。

だから数学でも得意分野と不得意分野はやはり存在していて、一概に1年次で成績が悪いからと言って2年次はもっと悪くなるとは限らない。

特に担当の教授の価値観にもよる。どこに価値を置いているかによって、評価項目が変わるし、その指標で評価されるのだから、その評価の観点が数学の全てではない。教授だからといって何も服従することはない。

2年次後期のそのことを自信に、3年次以降も「全然やっていける」という感覚が生まれた。その気概は武器になり、新しい分野でも立ち向かえる術となる。いわば、「一皮むけた」気がした。

1年次の線型代数は特に苦手で、天下り的に定義されたベクトルや行列の計算というイメージが強いこの分野は、私が学部1年、2年の前期までに「楽しい」という印象はとてもなかった。行列の計算では計算ミスが多いし、固有値を求めてさらに固有空間から基底を計算するのも時間がかかり、苦労しかなかった。

そもそもなぜ行列の積の定義はあんなに「複雑」なのか。行列の和は成分ごとの和で「簡単」なのに。積も成分ごとの積ではだめなのか。

そういうところはのちに理解されるが、「のち」になるまで分からないままを引きずるから、メンタル的によろしくない。意味が見いだせないまま計算をひたすらするのは、囚人が穴を掘ってまた穴を埋めるようなもので、つらいだけの数学ライフとなる。

2.良い書籍との出会い

学部当時、丁寧に解説が書いてあった線形代数の本といえば(今でもよく引用されるが)『線形代数入門』(斎藤正彦,東京大学出版会)が有名で、私の場合は「行列」と(基底を固定したときの)「線型写像」の1:1対応の概念が理解できてから少しずつ独学で前に進められるようになってきた。

要するに行列を計算する「意義」や「仕組み」が見えてきたわけである。

だいたい大学での数学のいろんな分野の講義だけは、理解が追い付かないことが普通(?)で「ふむふむ」とうなずいている人に聞いても、特にわかっているわけではなかったりする。

わからないことはわからないこととして管理できればよいが、何がわからないのかがわからないこともあるので、そういう時は、珈琲でも飲みながらリラックスした心持ちで、仕切り直すしかないのだった。

そして自分で読んでよくわかるなと感じる「良い書籍」との出会いは必要だと今でも強く感じる。

学部2年の後半くらいからか、ようやく独学で蓄えて来た知識や思考方法が少しずつ集積されてきて、講義の話が「一部はわかる」ということが起きてきた。

また講義で理解が追い付かないというのは、単に概念や記号に「慣れていない」ということもある。その時はいくらか簡単な例を作ったり、計算したり、新しい概念を知っているものに対応づけてイメージにしたりということをして、とにかく「頭に馴染ませる」のも手だろう。しかしその時にはもう講義が先に進んでしまっているので、実際は「保留」ということになるのが。

ところで私が分かりやすいと思ったものは、概して天下り定義を避けた数学の進め方にあるようだった。

説明の節約上、天下り定義は説明する側は「楽ちん」ではあるが、学習側としては意味がわからず、ある意味「やる気」が起きないからだ。そういうものだと仮定して(つまり割り切り事項として)進めるしかない。あとで繋がるのだろうと信じて。

数学のほとんどの書籍は「公理→定義→定理→証明」の連続がほとんどで、それは2300年くらい前のユークリッドの『原論』がそうなっているから、それをリスペクトして続いているという背景はわかるが、そのスタイルは私には合っていないのだろう。少なくとも考察の流れをもっと書いてほしいし、それゆえのモチベーションを強く与えてほしいタイプであった。

『集合・位相入門』、『線形代数入門』、『代数系入門』(松坂和夫,岩波書店)などは、学生当時私はこの本には出会っていなかったが、とてもわかりやすい。当時の同期もよくわかりやすいと言っていたのを思い出した。少し古いが再販もされていて初学者の独学用におすすめしたい本である。

3.良い教授との出会い

大学で学習した内容がある意味天下りだったためか、3年次後期に研究したい分野があるかと聞かれたときに答えたのは「数学基礎論」だった。それ以外は特になかったのが本音であった。

「確率論」も「結び目理論」も「函数解析」も「代数幾何」も、等しく同じくらいの興味で、甲乙つけがたい。ただ数学基礎論だけは何だか「怪しいにおい」がぷんぷんしていたので、私には魅惑的にみえた。

数学基礎論とは大まかに言えば数学を数学するような分野で、数学的体系がそもそも無矛盾なのだろうかという疑問にロマンを感じていた。

ただこれを専門にした教授は外部の客員教授を除いていなかった。

そこで分野よりも自分の好きな教授の下で修業することを選んだ。数学の分野というより「人」で選んだのだった。

数学のセンスが合う教授は、だいたいポイントが一致する。ここは明らかだろうとやり過ごすのを嫌うタイプだった私は、証明を与えないと気が済まない神経質なところがあったので、そこを理解してくれた教授に出会ったのはとてもよかった。

一方でそんな性格を指摘する教授もいらっしゃった。枝葉末節にこだわるより大局観をという観点もわかる。

確かに一時期の私は証明が「見にくい」ものだった。つまり、証明中に重要でないような明らかなことまでを全部証明しだすと、今度はどこがポイントなのか「強弱」がないのでわかりにくい。

それはそれで証明の書き方として一理あると納得したのだった。書きすぎず、されどポイント(使っている条件)は逃さない証明を書くこと。

証明をどこまで書くべきかというのは、センスの問題である。良い書籍と良い教授から、実例を見様見真似を通してそのセンスを養うと良いだろう。

4.数学とは

本来、数学というのは数や図形の研究をする学問であったはずである。それがこんなにも抽象的な対象に昇華されては、本来の図形はどこに行ったのか、本来の「数」はどこに行ったのか。それがわからず、抽象論を進めていった果てに本来の「数学の問題」としてのモチベーションはいつしか消えていった。

整数の問題、組み合わせの問題、幾何の問題、方程式の問題等。

初等的なしかし魅惑的な問題はたくさんあったが、もっと原理的な何かを見出そうという方に重きを置くようになってから、これらはもはや問題であって問題ではなく、それらの原理が成り立つ背景をどう理論整理するかに意識が向く。そしてそちらに興味が移っていった。

だから個々の問題に興味が消えるのも仕方ないのかもしれない。図形でも数でも何でもいいから、その代わり理論が整理しやすそうなものを選びたいというのはあるが、どれが美しいのか、どれがわかりやすいのか、それはやってみないとわからない。

だから学部での分野の選択は一層のこと教授が好きかどうかを基準に判断するのはありだろう。気持も前向きになるし、好きな教授なら吸収するものが多いだろうから。

専門分野がどうであれ、つまるところ数学科として学ぶべきことは具体的なテーマで確立された1つの理論を通して、その理論をどう整理していったのかという過程(物語)の方ではないだろうか。なぜなら「数学する」とはパズルを解いていくのではなく、理論を創作する営みであると考えるからである。我々はその作法を学んでいると思えばよい。

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