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映画『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を見て思ったこと

もう1ヶ月以上前の話になるけど、『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』という映画を観に行った。

自分は映画を普段は全然観ないのだけど、Twitterのタイムラインで多く話題に上がっているこの映画のタイトルを見て、ぬいぐるみ好きとしては観ないわけにはいかない!となって、ゴールデンウィークに暇だったので一人で行ってきた。

とはいえ意気揚々と楽しみに観に行ったわけではない。どちらかというと不安要素の方が大きかった。
何故なら、軽く情報を調べただけで、僕たちのような人見知りな人間たちの生きづらさが描かれるタイプの作品だろうことは容易に想像できたからだ。

だとすると、恐らく自分は過剰に感情移入してしまってしんどくなったり、共感性羞恥に苛まれたりするのではないか、というのが不安を感じた理由だ。ぬいぐるみが題材になっていることも、余計に自分と重ねすぎてしまいそうで怖い。
もともと、映画を観るなら自分たちのリアルからかけ離れたものを観たいと思うタイプなので、なかなか腰は上がらなかった。

それでも重い腰を上げることができたのは、「この作品なら映画館にぬいぐるみを連れて行っても冷たい目で見られないだろう」と思ったからだ。
きっと何かしら生きづらさを抱えた映画好きやぬいぐるみ好きなお客さんばかりだろうと思い、そういう人たちと、そして自分のぬいぐるみと一緒に映画を観るという体験はなかなか魅力的で、観に行くことを決意した。

専用の展示があったのでクマとパシャリ

どの子を連れて行くか悩んだけれど、一番あたらしく家にやってきたお気に入りの子、マリ持ちクマを連れてきて、ずっと抱きかかえながら映画を観た。

映画は予想通り、僕たちのような少し生きづらさを感じている人たちが描かれた内容だった。決して重すぎる内容ではなかったし、思っていたよりは胸糞なシーンは少なかったけど、映画の中で描かれるしんどさはしっかりあって、観てる側にまで常に気まずさを漂わせてくるリアリティがとても息苦しかった。正直なところ、自分が好きなタイプの映画とは言えなかった。

しかし、この映画の良いところもたくさん感じられた。
特に良かったのは、「やさしさ」を安易に肯定する内容ではなかった点。「人には優しくあろうね!」みたいな綺麗事な内容では決してなく、優しくあることの窮屈さ、不自由さ、そして身勝手さについても描かれているのはとても良かった。
映画内で「優しさと無関心は似ている」というセリフがあり、これはとても本質を捉えた言葉で考えさせられた。

主人公の七森とムギトちゃんには最後まであまり共感できず、自分の感性と作品とのズレも感じたものの、もう一人の主人公といえる存在「白城」という登場人物は本当に良かった。自分が最も感情移入できたキャラクターで、この作品で最も人間くさい存在だと思う。
イベントサークルにも入っていて、いわゆる「陽キャ」として立ち回ることもできる女の子。女性が食い物にされる社会に対し諦めのような考え方を持っていて、その中で上手く生きて行こうとする子。映画のラストを飾る、この子の心の中の独白は、観終わったあともずっと考えさせられるような傷跡を残してくれる。
(原作もチラリと読んだらラストの白城の心の中のセリフは原作では第三者視点の語り手による地の文だったので印象が結構違う)

また、作中の七森のセリフ「嫌なことを言う奴は、嫌な奴であってくれ」という言葉もブッ刺さった。人を傷つけるようなことを言う奴が必ず嫌な人間であるとは限らない。これもまた「優しさ」について考えさせられるシーンだった。

この映画はわかりやすく救済が描かれていたり、メッセージ性が強いタイプの作品ではない。だけど「優しさ」と向き合うこと、「生きづらさ」と向き合うこと、「大丈夫じゃない」と自覚すること、それらの問いを通して、ほんの少し心の汚れが取れた感覚にさせてくれる映画だった。

映画の感想から少し逸れるけれど、「ぬいぐるみに自分の話を聞いてもらう」という行為から小川洋子の『六角形の小部屋』という短編小説を思い出した。
六角形の閉鎖された小部屋に様々な人がお金を払って一人で入室し、その空間に向けて話す。誰にも聞かれない形だからこそ、胸の中の奥底にしまい込んでいた想いを初めて言葉にできる。

ちょっと違うかもしれないけど、村上春樹の『ノルウェイの森』でもヒロインの一人・緑の、脳腫瘍でほとんど意識のない父親に対し主人公が演劇論を語るシーンがある。大学で専攻している演劇はひどく退屈だという主人公が突然、演劇について熱く語りだすのが印象的だ。

人間は頭の中で物を考えるときも「言語」を用いる、というのはテッド・チャンの『あなたの人生の物語』というSF小説で描かれている。
確かに自分もよく頭の中・胸の内で色んなことを「言葉」にしているけれど、これを「誰かに聞かせる」形で声に出して話すのはまた全く違うものになるんだろうな、と思う。

よく「人に話すだけで気持ちが整理されて楽になる」というのを聞くけど、ぬいぐるみのような物言わぬ聞き手はその相手としてこれ以上ない最高の聞き手と言えるかもしれない。頭の中の「言語」を声に出して、誰かに聞いてもらう。人に話すのとは違って、物言わぬ何かに向けて話す。それは頭の中でごちゃごちゃ考える以上に「自分との対話」となり得るのだろう。

自分はぬいぐるみが大好きだけど、話しかけるとしてもせいぜい「おはよう」とか「おやすみ」とか「今日はいい天気だねえ」くらいのものだ。
心の中ではよくぬいぐるみと会話をするのだけど、声に出すとなると何か違和感がある。

考えてみれば自分は、ぬいぐるみに自分の話を聴いてもらうよりも、ぬいぐるみの声に耳を傾けている。この子はこんなことを言ってる気がする、というのをなんとなく感じて、それが心に響くのを聞いて心の中で会話を続ける。

映画を見ていて、暗い話ばかり聞かされるぬいぐるみはちょっとかわいそうだなあとも思った。僕はどちらかといえば、ぬいぐるみの話を聞いてあげる存在になりたい。

でもたまに、ぬいぐるみに僕の話を聞いてもらうのも良いかもしれない。自分の心の深い部分を言葉にして話すのは勇気がいるけど、いつか聞いてもらえたらいいな。

映画の感想をみんなに話して聞かせるマリ持ちくま

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