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「本」屋さん

本屋さんと言われて想像するのはどんなお店だろうか。本を売っているお店、まぁ当たり前である。しかしながら最近はその隣にカフェやカードゲーム場が鎮座していることが多い。
ただでさえデジタル化が進む世の中、本だけ売っていては経営が厳しいのだろうなあとほろ苦い思いでいる。


  実際に、ショッピングモールに入っていた、本だけ売っていた本屋さんは100均になってしまった。何冊もの本が、物語が、文字が100円に負けてしまった。
本屋さんは本を売るという役割をきちんと果たしていたのに…。

  さらに私のお気に入りであった街の本屋さんも
昨年店舗を畳んでしまった。そこは場所的に学生や塾の先生の御用達であった。そのためであろうか、痒いところに手が届く文具の品ぞろえがされており非常にありがたかったのだ。
その上素晴らしく丁寧な本の陳列がされてあったため勉強で疲れたらよく立ち寄っていた。芸術・文化方面の好奇心をそそる本も多くあり、一種の冒険の場と言っても過言ではなかったのだ。今ではオンライン販売を行っているそうで、完全にお店を畳まれた訳では無いことに安堵しつつもやはり惜しまれる喪失である。

  余談だがそのお店のレビューには「★‪☆‪☆‪☆‪☆
店員に愛想が無い!!」のような記述が散見された。
個人的な意見だが、本屋さんの店員に愛想がそこまで必要だろうか?もちろんあるならあるでいいものではある。
 
しかし本屋さんの店員と私たちの間には本がある。店員は私たちに本を売ってくれるのであって、私たちに直接サービスするわけではない。

少なくとも私は本屋さんには本を買いに行っているのであって、それが達成できれば満足である。
よってそこまで愛想を求めるなら然るべき場所に行って欲しいと思ってしまう。



  さて、昨年の冬、街に友人と遊びに行った時のことだ。
以前隠れ家のような場所にある本屋さんを紹介したところ気に入ってくれたようで、また連れて行って欲しいと頼まれたため私たちはそこに向かって歩いていた。

  しかし、その道中ふと目をやると古い建物に明らかに歴史のある本屋さんが入っているのが見えた。本屋さんというか、もはや本の保管庫のようで足の踏み場もなさそうである。「最高!!」と思い横を見ると友人も「入ってみちゃう?」と気になっていたようだったのでおそるおそる重いドアを開けた。

1歩足を踏み入れると埃と本の紙のにおいが薄暗い縦長の店舗の中に立ち込めて、古い文庫本や少し前の雑誌、とにかく色んな本があった。どこの局かも分からない謎のラジオが聞こえてきたので、少し奥に目をやると雰囲気のあるおじいさんの店主らしき人が不思議そうな目でこちらを見ていた。物好きな若者だなぁとでも思われているのだろう。そんな昔ながらの本屋さんが私はどうしようもなく好きだ。


本がある空間ももちろん私は好きだ。でもだからといって本だけ売る本来の本屋さんを潰す社会を愛せるかといえば答えはNOである。
例にもあげたように本だけを売る、またはそれに加えて文具を売るような従来の本屋さんは軒並み潰れてしまった。さらに何か付加価値がないといけなくなってしまった。

本は美味しくもないし、100円ではなかなか買えないし、正直今の社会では贅沢品と言われるのも無理はないかもしれない。
  しかしながら、私を京都の街の雰囲気で魅了したのも、西の魔女に会わせてくれたのも、鏡の中の孤城に居させてくれたのも本である。本の中の現実では起こりえない体験が現実に力をくれるのだ。

どんな本屋さんでも本を売っているのは同じだ。
だからこそ、もうこれ以上潰れないでほしい。

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