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癌と蟹のシンボル、神話と口伝、千島学説

気になったことあれこれ。


なんとなく頭にうかんできたこと

敵とするのか
自分のなかに敵をつくるのか

その敵を叩くのか
自分もろとも叩くのか

ほんとうにそれらは敵なのか?

そもそもたたかう必要はあるのか?

癌と宣告されることで病に囚われ
気持ちまで病人になっていく

言葉は魔術

かかった魔法を解くには
言葉の意味を自分で見つけて塗り替えていくしかない


ガン/癌/がん 語源由来辞典

がんは、江戸時代の医学書に「乳岩」で見られるため、「岩」の漢字音が語源と考えられる。
がんを「岩」としたのは、触ると固いしこりがあるところからと思われる。
漢字の「癌」も、「岩」の異体字「嵒」に病垂れからなる文字である。

癌を英語で「cancer」といい、「かに座」も「cancer」である。
「cancer」は「カニ)」を表すギリシャ語「karkinos」に由来し、腫瘍とその周囲のリンパ節の腫れたさまが、カニのに似ることからの命名である。
この英語名と関連づけ、癌の語源を「蟹」の俗語形「ガニ」とする説もあるが、日本で「がん」と呼ばれるようになった時代や漢字の使用例から考えて妥当ではない。


癌の漢字の由来ってなんですか?


日本癌学会のシンボルマーク


再生・輪廻の象徴、水神の使い「カニ」

カニにはとても素晴らしい再生能力が備わっています。

時折、仲間同士で争った挙句、ハサミや脚を失ってしまうカニがいます。しかし、脱皮することで失ったハサミや脚は見事に再生されるのです。

また、天敵や仲間との争いで勝ち目がないと悟ったとき、ハサミで相手を挟んだあと、そのハサミを自ら切り落として、その隙に逃げたり、傷ついたハサミや脚を自ら切り落とすという「自切」という驚異の習性を持っています。

小型の石に幾何学的な紋様が彫られた「線刻礫(せんこくれき)」といわれる古代の護符(と思われる)には、カニを模したものもあり、福島県いわき市の薄磯貝塚などで出土しています。

これはカニの再生能力生命力にあやかろうという思いが込められたもの、そして縄文時代特有の「死して自然に還り、新たな生を得る」という、生命の循環の象徴(シンボル)だったのかもしれません。

長野県の佐久、小県、諏訪地方では正月の6日から7日にかけて、大晦日のような年越しをもう一度行う風習があります。これを「六日年」「七日正月」あるいは「蟹年(かにどし)」といいます。

この日は、沢蟹を捕らえて来て、串に刺し、門の戸口に挟みます。次第に生きたカニを捕らえることはなくなりましたが、代わりに紙にカニの絵を描いたり、「蟹」という文字を書いて戸口に挟むようになりました(柳田國男の『年中行事覚書』記載)。

これは流行病などから一家を守るための魔除け、邪気祓いの意味合いをもった習俗なのです。一部では、これを節分に行う地方もあるのだとか。


かに(蟹)座の神話

[かに座の神話]

 ギリシャ神話では、英雄ヘルクレスが行った12の冒険の一つである、レルネアの沼地に住むヒドラ退治の際に踏み潰された巨大な蟹です。また、この蟹はヘルクレスを快く思わない女神ヘラが差し向けた刺客で、ヒドラの仲間です。

 ヒドラとは九個の頭を持つ怪物で、ヘルクレスがその頭を何度も切り落としても、その切り口からは新しい首が何度も生えてきたため、さすがのヘルクレスも疲れ果てていました。
 その時、ヒドラに加勢しようと、沼地から這い出してきた大蟹はヘルクレスの足を自慢のハサミで、バチッとはさみました。
 しかし、いかに大蟹のハサミであっても巨人で怪力のヘルクレスにとっては、大したことの無い攻撃でした。ヘルクレスはヒドラとの格闘のどさくさにまぎれて、思いっきり蟹を踏みつけてしまいました。もちろん、蟹はあ っさりペチャンコなってしまいます。ヘルクレスは踏み潰したことにも気づきませんでした。

 女神ヘラは憎いヘルクレスを困らせた「感心な者達」として、ヘルクレスに退治されてしまった蟹をはじめとして、その他にも、ヒドラをうみへび座、人喰いライオンをしし座として夜空に上げました。

[かたち]

 Cancerはラテン名ではカンケル、ドイツ語ではクレプス、英語でキャンサーと言い、どれもガン(癌)の学名と同じです。これは、乳癌の形が蟹の甲羅に似ていることから言われるようになったそうです。

 中国では昔、「積尸気(ししき)」と言い、「死体を積み重ねた所から出る気」のことを意味するそうです。何故かと言うと、今では、かに座の中心のプレセペ星団は星の群れであることが分かっていますが、昔はボーっとした青白い人魂のように見えたからだそうです。
 また、かに座は「鬼」とも呼ばれ、プレセペ星団は死体から立ちのぼる妖気とみて忌み嫌い、かに座のことを死人が地上に残した霊という意味の「鬼宿」と名づけていたそうです。
 
 α星をアクベンス、アラビア語のアル・ズバナー(爪)からきたもので、正式にはズバンアス・サラタン・アル・ジャヌビ(カニの南の爪)。
 β星はアルタルフ、アラビア語で足の先、終点という意味。
 γ星はアセルス・ボレアリス、ラテン語で「北の小さいロバ」という意味。
 δ星はアセルス・アウストラリス、同じくラテン語で「南の小さいロバ」という意味。神話では火の神へーファイストス、酒神ディオニュソスの乗っていたロバで、神々が巨人族と戦ったとき、泣き声で敵を敗走させた功績で星にされたとか、ディオニュソスが精神の病を直してもらうため、大神ゼウスの神殿に助けを求めに出かけた時に、酷い頭痛にあい、川を渡る事のできなくなった彼を、背に乗せて神殿まで送り届けた二匹のロバだという説があります。また、その功績から、かに座にあげられ、飼い葉桶ももらいました。この飼い葉桶とはプレセペ星団のことです。

 イギリスではプレセペ星団のことを、「ビー・バイブ(蜂の巣)」と呼んでいました。
 かに座は古代エジプトでは、神聖なものとされていた「スカラベ(昆虫)」の姿をしていて、チベットではカエルの姿としていたそうです。

  
大牛蟹


防災に関わる「言い伝え」

地震直後、海鳴りがしたら避難する
朝雷は洪水のもと
一度逃げたなら1〜2時間はまて
地震がきたら肥やしの上に乗れ(口伝)
古代から使っている道は浸水しない
汗かき阿弥陀は吉凶異変の前兆として全身に汗をかく
地名「仏」は崩壊を意味する地名
地名「猿内」は崩壊・侵食地形を意味する


汗かき阿弥陀


生命の自覚

第四章  現代医療は人間を無視している

 何がなんでも手術に反対だとは私は言わない。治療の最後の手段として時には必要であろう。しかし、あまりにも安易に体を切りきざむ医師と、それに同意する患者の軽薄なこの頃の風潮には批判したくなる。たしかに患部をとり除けば苦痛は消え、たいへん効果があったかにみえる。だが、生体からだが失ったものは永遠に戻ってはこない。あとに述べる千島の声明弁論法でも触れるが、からだには無駄なものはひとつもなく、すべての細胞がつながり、かかわってひとつのからだになっている。

がん細胞もからだに必要なのだ P133

 千島学説を支持する数少ない医師の一人に、深江雄郎ゆうろう氏がいる。彼は京都大学の医学部を出た産婦人科医だ。
 その彼が、千島学説に興味を抱いたのは、彼が父をがんでうしなったことによる。
 彼の父はがんと診断され、医師はあと三ヶ月の生命と宣告した。それから手術、抗がん剤投与、さらに放射線まであてられた。そして、深江氏の父は、医師の見通しどおり三ヶ月後に死んだのである。
 医学に無知ならばなんとも思わなかったのかもしれない。だが、深江氏は医学博士であり、医師である。
「これはおかしいぞ!と、思った」
 彼はそう述懐する。
 患者の余命を的確に言いあてるなど、どんなに名医であろうとも至難のわざである。そこで深江氏はこれにカラクリがあると思ったのだ。
 それに、医師の論理からみて、あと三ヶ月の生命だと分かっている患者に、どうして苦痛をともなう治療をつづけたのかという反感がある。

 しかし、その医師は治療が無意味で、患者を苦しめるだけでしかないことを、すでに診断のときに知っていたのだ。だが現実には病院におけるがん治療は、それしかなかったのである。深江氏自身も産婦人科の医師として、子宮がん手術を数多く手がけてきた。がん細胞を取り残したかもしれない心配していたがん患者が、五年を過ぎても生存していたり、ごく初期であり、全部切除したからだいじょうぶだと確信していた患者が再発したりという経験をもっている。現代医学に忠実な治療をしてこうなのである。
 彼は自分の父をがんで失ったことと、医師としての子宮がん手術の経験から、現代医学のがん対策にはどこかに間違いがあると思うようになった。

患者の余命にはカラクリがある P134-136

 深江氏は千島教授より文学的である。彼はがん細胞をふつうの少年に対する非行少年にたとえる。”がん細胞非行少年説” を説く

 非行少年は社会に害を及ぼすから殺してしまえという発想は誰にもない。よりよい方向に導いて立派な社会人に育てようと努力する。
 なのに現代医学はがんを敵視する。がんをやっつけるという方法でしかみていない。しかしがん細胞をよりよい方向へ導いてまともな細胞に戻す療法こそ新しい医学ではないか。
 四人に一人が、がんで死んでいっている今日、人類が、がんの恐怖から逃れる道は、がん細胞との調和である。


 千島は、血球は細胞になると言った。細胞は血球に戻ると言った。がん細胞も血球に戻るのである。
 深江氏は医学の世界に属しながら、それに対立する千島の  ”がん細胞と血球の関係”  の説に深い関心をもった。

”がん細胞非行説” がいちばんいい P138



千島学説入門

第四章 血球の可逆性と造血について

 千島の ”赤血球分化説” が承認されない背景には、既成の ”細胞分裂説” が広く信じられているのも一つの理由です。

 しかし、これは先に述べたことですが胎児、幼児時代から脳や肝や筋肉の組織が、細胞分裂によって細胞を増加させるのを、実証した学者は世界で一人もいません。これらの組織では細胞の分裂像が見られないのです。なのに、脳や肝や筋肉は成人になるほど、胎児のそれに比べて著しく大きくなり細胞数も増えています。そして、細胞の個々の大きさはむしろ成人では幼児より小さくなっています。

このような矛盾した事実を、現代生科学ではどのような説明をしているのでしょうか。到底説明することはできないため、不明のままになっています。
 
 千島学説であれば、この盲点は明確に説明できます。細胞は分裂によって増殖するのではなく、赤血球が分化することによって細胞はつねに新生されているのです。
 
 「一般に細胞分裂像とみられているものが、生体内で見られる。これは細胞が成熟し死滅する一歩手前の現象で、けっして増殖作用ではない。また、この現象は、鶏胚子の卵巣の卵細胞その他でよくみられるが、この細胞分裂と思われる現象は、細胞分裂の前兆ではく、むしろ細胞と細胞が融合する場合に広く見られる。事実は逆である。」

細胞分裂とガン腫 P142

 千島教授は、このようにはっきりと細胞分裂による増殖を否定し、それは研究者が事実を見誤ったものと言っています。  
 その理由は造血についてもいえます。先に述べたように現代生物学では、人間の造血は、主として手足の長骨の骨髄とされています。ところが、健康で栄養の良い人の骨髄は、脂肪が充満していて、いわゆる細胞分裂像といわれる像がきわめてまれにしか見られません。現代医学では毎日二〇〇〇億個の赤血球を補充しなければならない計算になっているにもかかわらず、その造血場所に細胞分裂像が少ししか見られないということは矛盾しています。しかもそのわずかに見られる細胞分裂像も、千島教授のいうように、細胞の融合によって骨髄巨大細胞に変わっていく移行像を見誤ったもの、ということであれば ”骨髄造血説” は、まったくナンセンスです。

 ガン細胞は猛烈な勢いで細胞分裂を繰り返し、ガン腫が大きくなるという定説が広く信じられています。ところが、ガン細胞は定型的な過程で分裂像を示すことはほとんどなく、ましてやガン細胞が二個に分裂する像は、ほとんど見られません。このことは、ガン細胞の分裂増殖を信じるガン研究者も認めていることです。
 千島教授がヒトの子宮ガンの組織標本を調べた結果によれば、分裂像の前期、中期の型を多極的に示した、いわゆる細胞分裂像が比較的少数認められたが、これは真の細胞分裂の過程ではなく、赤血球が融合してそのなかからDNAを新しく合成する現象であることがつきとめられたのです。
 しかし、不自然な状態、すなわちガン細胞をとり出し、不自然な媒質のなかにおき、気圧も異なる条件下では、しばしば細胞分裂を示すことは、千島教授を認めていることです。その様子が映画にも撮られています。だが、このような状態は、自然状態の体内では見られません。強い光か、不自然な媒質のなかで細胞がしばしば分裂に似た形を示したとしても、それは不自然な仮の姿にすぎないといえましょう。

骨髄造血説では、以前は手足の長骨の骨髄で赤血球は造られているといっていました。いまでも主として手足の長骨の骨髄で造血されているといっています。
  しかし、手足を無くしダルマになった人が、貧血もなく、元気で生きていたことは現実にありましたから、これも既成説の盲点といえます。
 造血は主として手足の長骨の骨髄で行われ、その他頭蓋骨のような扁平骨や脊椎その他の短骨でも少しは造血すると最近ではいわれています。
 しかし、これらは千島教授の系統発生的研究から見ても、謝りであるといえます。海産の腔腸動物以上の動物の胃腸は海水が出入していて、それから栄養をとっています。血球の起源は海水中の原生動物であるという生物学者の説もあり、これは原理的に間違っていません。このことは、人間や高等動物の個体発生、すなわち胎児から成体までの造血の場所を逐次調べても解ると、千島教授はいうのです。

手足の長骨を失っても生きられる P153




末期ガンからの生還

文章からも生きる意志を感じるし、楽しんでいるのが伝わってきた。
このことからも「病は気から」なのだと改めて感じた。

東京でのできごと

都内の雑居ビルの中の小さな事務所がS商工だった。そこに、私からの電話を受けた、S商工のS社長が待っていてくれた。
S商工は、長年健康食品や健康グッズを製造販売している小さなメーカーだった。

私はその日、どんな顔をしてそこへ行ったのだろう?

事務所へ入ると、いきなり初対面のS社長に笑われた。

S社長:ねえあなた、なんでそんな顔してるの(笑)。そんな、死にそうな顔しちゃって。

私:あのね、私、死にそうなんじゃなくて、本当に死ぬかもしれないんですよ。末期肺がんで、余命一年といわれたんです。(むっ)(でも本当に土気色の顔色をしていたのだろう)

S社長:あ~、そうだったよねぇ。それで来てくれたんだものね〜。でも、ほら~、よかったじゃない。もう、治っちゃったでしょ(ニコニコ)。

私:え?(キョトン)

S社長:ほらもう治っちゃったじゃない。よかったね~(ニコニコ)まあとにかく、やってみてよ。やってみないとさ、わかんないからねぇ、ほら。ねぇ。

読みなながら、S社長と話したことで「この瞬間に意識のスイッチが切り替わった」のかもしれないなと思った。





内側にあるあまねく照らすもの

この自分の内側の天照は、枯渇しないエネルギーなので、何にでも、じゃんじゃん、照射してみてください。

あと自分が癒されたいという時には、
この光で自分自身を包むといいかと思います。

気が散りやすく移り気なので、外にガチャガチャと飛び出さないように内に留めておけるようにとやってきたけれど、出すときのイメージを変えれば外側へと気にせず広げていいんだと知り、なんだか力が抜けた。
そっか、それで自分自身を包めばいいのか…と妙に納得できた。

納得はいつも突然やってくる。

じわじわ〜っと広がり
じんわりとあたたかさが伝わってきて瞼が重くなってくる
気づけば目を閉じていて頬がゆるみ
肩の力が抜ける…そんなイメージ




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