見出し画像

その発言は誰目線なんだろう?

言葉でうまく人には伝えられないけれど、自分のなかで強い違和感を感じることがある。

なんとなくうやむやにしてきたけれど、長い年月を経てあの感覚がまたやってきた。

その言葉はどこに向けられたものなのか?

なんとなく子どものときから、「自分にかけられている言葉なのに自分を素通りしていくな」と思う言葉があった。

相手は自分に対して話しているのだけれど、その話している言葉は自分に向けられたものではなくて、すり抜けていくように感じた。

自分はその場にいるのだけれど、なんだかいないように感じた。

画像1

ここしばらくは星座にハマっているので、昨夜はノートに「12サインと世界のつながり方」をメモしていた。

書きながらふと、思った。
ある人が一人称で文章を書くのが苦手だと言っていた。
逆にわたしは、どうしても「わたし」が入りこんでしまう。
同じ物事を見ていても持つ視点が違っていれば、見える世界はまるでちがうものなのかもしれない。


風邪

子どもが小さかったころ、長男が何度も急性胃腸炎(嘔吐下痢症)になった。
子どもの回復の兆しが見えてくるころに今度はわたしもかかりしんどい思いを何度もした。

病院に行ったりもしたけれど、けっきょくは出すもの出して回復を待つしかないのだと学んだ。

出す方が盛んなときは、顔色が白くなっていき覇気もぬけて唇がくすんだ紫色になっていく。

「お腹がすいた」と意思表示し、みそ汁をのんで「おいしい!」との声をあげたら回復のサイン。

出す方が止まらず、食欲ももどらず、唇がシワシワになってきたら病院に行くサイン。

点滴してもらうと、元気ももどってくるから不思議だ。

そんな感覚でやってきた。

でも、わまりを見ると風邪をひくとすぐに病院に行く人が多かった。
検査をして風邪のウィルスの名前を口にする人が増えた。

まわりのママさんにも「調べてもらうといいよ」とよく言われた。
すぐに検査する病院が丁寧な診察をしてくれるように思っているようだった。
わかったからと言って、回復が早まるわけではなくて、けっきょくは体の回復待ちなのは変わらない。

けれど、わたしの行動ははたから見たら素人の自己判断でしかなく、病院に連れていかないため「子どもがかわいそう」に見えるらしい。

喉が痛かったらハチミツかりんシロップを舐めて早めに寝る。
寒気がしたら葛根湯をのんで、あたたかくして早めに寝る。
寝ていて大汗をかきだしたら、こまめに着替える。
お腹をくだしていたら、食事を控えてお腹を休める。

こんなことをやりながら、変化がないか観察し、ひたすら休むことにつとめる。

わたしからすると、弱っている人を連れ出して病院に連れて行く方がリスクに感じるのだが、あまりわかってもらえない。

ウィルスの名前がわかると不安から解放されて、安心がやってくるのかな。


インフルエンザ

中学生のときインフルエンザにかかり、体中が痛くて這うように階段を上がった記憶がある。

その当時は、「あら、インフルエンザね〜」といったいった感覚で受け止められていたように思う。

わたしの子どもが小学生になってみると、インフルエンザにかかることは「おおごと」になっていた。

「誰がなったか」がうわさされ、「誰からもらったか」が話題になった。

家族からもインフルエンザの予防接種を受けるように言われたけれど、その理由が腑におちなかった。

「インフルエンザになると大変だ。だから打つべきだ。」との言い分と、インフルエンザの予防接種をしてもかかる人はかかるし、重症化を和らげるというものだと思っているわたしの意見では平行線だった。

家族は「仕事は休めないから、かかったら大変なんだぞ」と打つようにすすめてくるのだけれど、ハズレることも多いのになぜ打つ必要があるのか不思議だった。

タミフルも飲んでも1日しか緩和されないのに、精神錯乱する可能性があることの方がこわいと感じたし、それがあたりまえのように出されることの方が疑問だった。


ケンカ

うちの子どもたちは毎日のようにケンカをする。
なぜかそれでも同じ場所にいることが多く、たくさん笑いふざけ合って、たくさんケンカをする。

次男が怒りながらわたしに言いつけにくる。

おれは悪くない。
すべて兄が悪いという。

長男に話を聞いてみると、次男が端折って抜け落ちている場面が見えてくる。

「すべて兄が悪い」は本当か?

人はどうしても自分が見たいように物事を捉えるし、有利なように物事を解釈し伝えてしまう。

ケンカになるということは、互いの利害が一致しないということ。
それぞれに言い分があり、互いの正義がぶつかり合う。

言葉で解決できないと暴力に頼るかたちになる。
暴力はわかりやすいし、服従させやすい。
けれど、あとあとまで尾をひき、恨みが残る。

一方からの言葉ばかりが占めているとき、そんなときこそ相手はどんなことを言っているのだろう、と知ろうとする必要があるように思う。

一部を知ったからといってすべてを見ていたわけではないのだから、判断することはできない。

つい、もめ事をはやく終わらせたいからと、親の権限で裁きを下しがちな自分への戒めとしたい。


最近、「MAGI 天正遣欧少年使節団」を観ているのだけれど、人の言動には良きこととされることにも己の欲望がついてまわるということがよくわかる。

欲を捨てるのはむずかしい。
欲を捨てたと思っても、捨てきれない欲がむくむくと大きくなってくる。


最近、物事に対してどんなふうに捉えたらいいのだろうと考えることが多い。


まずは、口をつぐんで静観すること。
誰の問題か考えること。
人の問題に首をつっこんでかきまわさないこと。
言葉を安易に信じ込まず、現実や物事の流れを見てそのままを受け入れること。

「すべてはわからない」と認めること。
無理やり解決させないこと。

いまはそんなことを大切にしたいなと思っている。


違和感と安心

「なんか変だな…」その違和感をわたしは無視したくない。

どうやらわたしは、「自分の安心のために人の行動を変えさせること」に強く違和感を感じるのかもしれない。

その人の考えを聞かず、「あたりまえに従うべきこと」にされることに気持ちがざわつく。


わたしたちは目の前のことには無関心で、遠くの出来事に心を奪われる。

まずは目の前の世界を見てみるのはどうだろう。

自分の目の前の現実はどうなっている?
自分は何に困っているのだろう?

目の前にあることで自分がやれることはなんだろう。


小さな子どものように言葉や信仰がちがっていても関係なく一緒に走りまわって遊べたらいいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?