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ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」 (読書記録)つづき

この本を読み終わってみると付箋だらけになっていた。
前回だけでは書ききれなかったので、もう少し考えたことを添えて書いていこうと思う。

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前回の記事はこちらから↓

大学ってどんな場所だろう?

 大学に入ってくると、学生は、これまで経験してきた学問と違うことに大きな戸惑いを覚える。大学では答えのわかっている問題よりも、まだ答えのない課題があることを教える。複数の答えがある問題もあるし、そもそも答えが求められていないこともある。必要なのは、常識にとらわれずに自分の考えをまとめ、それを確固とした根拠をもって説明することだ。

自分の特性上、答えがないものを見つけていく作業は好きなことでもある。
義務教育のなかで熱中して教えている大人や、楽しんで学んでいる大人に出会うことがなかった。
だからか勉強は義務的なものに感じていたし、そのなかやその先に楽しいことがあるように思えなかった。
当時は知らなかっただけで実際大人になっても夢中で学んでいる人もいる。

学問に向き合う楽しさを知るきっかけがあったら、「わたしは大学に行きたいと思ったのだろうか?」疑問がわいた。
結局は学校のような型にはめられたスタイルで学ぶことに拒否反応があるから難しいのかもしれない。
けれど、「この教授から学びたい」といった強い欲求をもつことができたなら、どうにか叶えるすべを探して義務教育の授業を前向きに捉えることができたのだろうか。
後悔ではなくただ知りたくなった。
昔の自分に聞いてみたいなと思った。

本物の学問とは?

 大学生たちは本物の学問に出会う。それはいまだ解のない世界であり、先人たちが未知の解を求めて苦悩した歴史である。そこで学生たちは学問のおもしろさや可能性、世界にある問題を知り、自分の能力が何に向いているかを理解していく。それに気がつくのは自分ではあるが、その助けとなるのは仲間であり教員である。そのためにこそ、大学は世界の常識にとらわれない自由な発想が許される場でなければならない。

本物の学問に向き合うそんな場所を見てみたいと思った。
わたしのまわりの大学に行った人たちの話を聞く限りでは義務的な学びの場である気がしたし、惰性でこなすものというイメージしかもてなかった。

夢中で学問に向き合う人たちがいる場はどんな雰囲気なんだろう?
みんなどんな目をしているのだろう?

大学という場所が各々自分の性質を見極める場でもあることを初めて知った。



ジャングルの魅力と歴史性

 ジャングルの魅力はその歴史性にある。今あるものは、今と違ったものや組み合わせから生じてきたからである。大学も同じだ。学問を理系・文系と分けてその成果を比べるより、それらの学問が交流するなかで何を生み出してきたかに着目しなければ、未来への道は開かれない。


なぜ人間の世界はこんなにも悪意や敵意に満ちているのか。

 人間は今一度、言葉以前の暮らしに立ち返り、人間の祖先が五感を用いてどんなコミュニケーションを駆使していたか、どんな暮らしを営んでいたかを思い起こしてみる必要がある。私たちの身体や心は現在の人工的な環境にミスマッチを起こしている。個人的な欲求をてっとり早く満たすことだけが、人間の幸福なのではない。
私たちはいったいどんな世界を求めているのか。

世界はどんどん効率的になっていく。
ただ効率的になった世界はたくさんのものを失った世界でもある。
時間をかけて作り出すものや語り継がれるもの、築き上げてきた人間関係…
子どもたちが暇だと騒ぐばかりで、自分たちで時間を楽しむ術を見つけようとしない場面を見たとき、とても驚いた。
自然の中で遊びをつくり出す発想がなかなか浮かばない。
身近に欲しいものがある、刺激的なものがある…便利だけれどそのぶん繊細な感覚、小さな変化に気づく能力を失っているということも忘れずにいたい。

感情暴走社会の由来

 サルも類人猿も人間も、視覚によって物事を判断する。見たことが事実であるし、不明なことを見て確かめようとする。だから見られているときとそうでないときとでは、同じ人間でも行動を変えることがある。道徳はまず、人に見られているときの行為を教えてくれる。その規範を内面化し、 人に見られていなくても行うようになるのが社会人の条件で、それが理性の源泉になるのだ。
 しかし、昨今の生活状況の変化は見られる機会や意味を減らし、感情に重きを置いた行為を選択させているように見える。インターネットのおかげで自由に情報にアクセスできるので、だれにも相談せずに知識を得たり判断したりできるようになった。他者を否定することも肯定することも、自分ひとりの判断で行えるようになった。それは他者の存在を考慮せず、自分の感情のおもむくままに行動する傾向を助長してしまう。

ほしい情報が身近にあるわたしたちは「自分で考える」という工程をすっ飛ばして、誰かの意見を自分の考えのようにあつかってしまっていないだろうか。
まずは自分で考えること、それから調べたり共有したり相談することが大切なのかもしれない。
便利な世界はひとりで完結しやすい。
でも生活はひとりで完結できない。
個々の意見がしっかりあるということは、すり合わせが必要で自分の意見ばかり突き通しても解決しない。
そのコミュニティの一員である意識が必要で、みんなで解決するぞという意識が大切なように感じるけれど、なによりみんなの信頼を得てまとめられる人が必要なんだろうな。


道徳教育の前に共同体をつくれ

 人間は類人猿のすめない過酷な環境に進出し、仲間内でうわさ話をしながら協力を強化してきた。言葉によってスキャンダルや恥ずべき行為をあげつらい、それを罰し、共同体から排除することによって、罪の意識を定着させてきた。ただこれまで人間が暮らす社会は小さく閉じていたので、いまだに共同体の外に恥や罪の意識を拡大することができていない。「他人にしてもらいたいことをせよ」という黄金律は、共同体の内部のみに通用する話なのだ。


現代社会でなぜ道徳の力が弱ってきたのか。

 人間に普遍的な恥の意識がそう簡単に薄れるはずがない。恥を感じたときにその行為を抑制できる環境や、罪を感じるルールが内面化されていないのが原因だと思う。隣人関係が希薄になり、共同体内部でうわさ話によって抑制し合うことがなくなってきた。さらに多様な文化や価値観が入り混じり、どのルールを基準にしたらいいか判断が難しくなった。宗教が模範を示す力を失ったのも大きな原因だろう。道徳は自分が属したい共同体があってこそ成り立つ。それがなければ、道徳は心に宿らないのである。

人間がもつ普遍的な恥の意識。
自分はどんな恥の意識をもっているのだろう。

周りの人が忙しくしているとき、自分が休憩をとる番であったとしても、ソワソワしてしまいゆっくり休めない。
人の目線に触れているとき、無意識にがんばってしまうのは自分のなかにある普遍的な恥の意識なんだろうか。

恥の意識とはまとまるために必要なものであり、その意識が強ければ呪いになってしまう可能性もあるかもしれない。

しかし、ネットの共同体には行為を抑制する力はないので、逸脱した行為を止めることも罰することもできない。

とあるが、本当だろうか。
ネットの共同体に行為を抑制する力はないのだろうか。
模索しその課題に挑み続けることで、ある日突然変化が起こるそんな可能性もあると思いたい。
コロナ禍で共同体の意識は薄れてしまったのを感じる。
だからこそネットのなかの共同体で、どのような共通意識をもち、どのような意思決定の方法をとれば可能になるのか知りたいなと思った。


他人への気配りが自分の安全や幸福を確保することにつながっっていた日本。なぜそういった他人への配慮が失われたのか。

 世の中が自分中心に動いていて、他人を慮ることが非効率で不確実に見えるからである。それはサルの世界に似ている。ニホンザルの群れは、個体の利益を最大化するようにできている。  
 サルと違って人間は、複雑な分業制のもとに食物を供給し、さまざまな構築物と組織で安全を保障するようになった。そこではもはや、自分や親しい仲間だけで安全を保障することはできない。食物は自分の知らない場所から多くの人の手を経てやってくるし、高層建築や鉄道などの自然を越えた文明の利器は、どこまで安全か一般の人々にはわからない。こういった人為的なシステムとしての環境に身を任せるには、そのシステムを維持する組織を信頼するしかない。でも、その組織にいる人々を私たちは直接知っているわけではないのだ。そこに、信頼関係が破綻し、自分の利益を優先して安全性を軽視する危険が生じる。


争いは人類の本性なのか

 人間が同種の仲間に武器を向けたのは約1万年前に農耕がはじまってからの出来事で、人類の進化700万年のごく最近のことにすぎない。戦争が人間の本性などとはとてもいえない。そもそも狩猟と戦争は動機がちがう。狩猟は食べるための経済的な活動だが、戦争は相手と合意するための自己主張だ。相手が認めてくれれば戦いを続ける必要はない。



人間はいつまで領土とか国境とかにこだわり続けるのだろうか。

 人間がまず自分のアイデンティティーをもったのは土地でなく、集団である。それは家族という子育ての組織が確立されたころだと思う。人間は生涯にわたって家族のきずなを保ち続ける。ゴリラもチンパンジーも親元を離れてしまえば親子の関係は断たれるが、人間は別々の集団で暮らしていても家族のきずなを維持し続ける。
 約1年前に食料の生産がはじまって土地に大きな価値が生まれ、定住生活が主流になった。土地の境界線が集団の境界になったのである。土地を守る大きな組織が形成されるようになり、人間のアイデンティティーはさらに大きな集団へと移しかえられた。その最たるものが国家だろう。国家は明確な国境をもって他の国家と区別される。しかし、それはもはや目に見える集団ではない。
 今さまざまな手段で越境しはじめている。携帯電話やインターネットによる交信を止めることは難しいし、物の流れは加速するばかりだ。もはや国がある地域を独占支配する時代は終わったのではないだろうか。重要なのは、その土地を実際に誰がどう使うかである。人間はテリトリーをもつようには進化していないことを思い出すべきだ。地球の土地を世界の人々が共有する新たなルールを作るべきときがきているように思う。

不安や恐れが争いを生む。
争いからさらに憎しみが生まれる。
小さな集団であれば見たり聞いたりして確認できていたことが、大きな集団になったことで見えない大きさになってしまった。
情報の正しさを目で見て直接的に確認することができない。それを信じるか信じないか決断がする必要が出てくる。それに伴い操ろうとするものも出てくる。
国や宗教や人種いくつも線引きや枠があるせいで複雑に絡みあって解決が困難になる。
それも見えない大きさになってしまっていて、絡まった糸をどこから解いていけば見えない状態なのではないだろうか。


ゴリラがキングコングだったころ

 今もこうした誤解に満ちた物語がくり返しつくられている。
 人間は話をつくらずにはいられない性質をもっている。言葉をもっているからだ。私たちは世界を直接見ているわけではなく、言葉によってつくられた物語のなかで自然や人間を見ているのだ。言葉をもたないゴリラには善も悪もない。自分たちに危害を加える者には猛然と戦いを挑むが、平和に接する者は温かく迎え入れる心をもっている。過去に敵対した記憶は残るが、それを盾にいつまでも拒絶し続けることはない。人間が過去の怨念を忘れずに敵を認知し続け、それを世代間で継承し、果てしない戦いの心を抱くのは、それが言葉による物語として語り継がれるからだ。
 言葉の壁、文化の境界を越えて行き来してみると、どこでも人間は理解可能で温かい心をもっていることに気づかされる。個人はみんな優しく、思いやりに満ちているのに、なぜ民族や国の間で理解不能な敵対関係が生じるのか。グローバル化した現代、私たちはさまざまな地域や文化の情報を手に入れることができるようになった。つくり手の側から物語を読むのではなく、ぜひ多様な側面や視点に立って解釈してほしい。新しい世界観を立ち上げる方法が見つかるはずである。

自分の中に希望の物語をもてば日常が活気にあふれたものになり軽やかに過ごせる。
それが、悪を倒す勇者の物語だったらどうだろう…
悪は誰から見た悪なのだろう?
勇者は本当に勇者なのだろうか?
物事をどこから見るかで善や悪の認識もガラリと変わる。
背景を知ると悪いとされているものも完全に悪いとは言いきれない。
その土地その土地に長い年月をかけて蓄積された物語があるだろうし、宗教が生活の基盤のなかに入っていたりと難しいことばかりだとは思う。
けれど、国の代表や土地の代表としてではなく地球に住むただの人間として話し合うことができたら…地球に住む力をもたない一個人ではあるがそう願ってやまない。



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