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私と呪いについて 〜役割という呪い〜

今回の話は人を呪うなどといったものではなく、自分で自分を呪っていること、無意識に「そうしなければならない」と思い込んでいることについて考えてみようと思う。

わたしが「そうしなければならない」にがんじがらめになってしまうとき、それは自分だけの役割を担っているときだと思う


子供としての役割

それは家族の関係を良くするための潤滑油のような役割だ。
本音を言わない個人主義的な家族の中で、気持ちの交換がしたかったわたしは寂しかったのだと思う。いつからか気持ちを押し込めるのがうまくなった。
けれど、子どもが産まれてからは両親もただの人であり完璧ではないこと、未熟だっただけなのだと理解することができた。
(なぜなら子育ては上手くいかないことの連続だと知ったから)
それからは、定期的に顔を見せに行き、一緒に遊びに出かけた。
もう充分親孝行したのでは…と、半年ほど前にやっと思えるようになってきた。
だから、今はその役割は降りている。
生まれ育った家ではあるが、親はどこか他人行儀で一緒にいるとソワソワしてしまう。
そんな雰囲気に、わたしは無駄に気を配り続けてつかれてしまうのだろう。
夫の両親は自由気ままで人に寛容だからか、不思議と一緒にいても楽だと感じる。

妻としての役割

どうしてもきっちりこなそうとしてしまう。
もっと手を抜いていいのにと言われるが、やるべきだと思っている自分がいる。
自分が縛られずに自由でいるために、相手には制限をかけないし、自分にも制限がかからないようにしている節がある。
結婚した最初の数年は自分に縛りを設けすぎて、余裕がなく溺れていた状態だったかもしれない。
11年経った今では、つらくなったら寝込むこともできるし、助けを求めることもできるようになった。
それは家族としての距離感がつかめるようになり、関係性を育ててこれたということなのだろうか。
なんというか、夫婦というより親友といった関係だ。


母親としての役割

子どもに対して誠実であること、見守る姿勢でいること、気持ちを伝えること…これがわたしが母親として心がけていることであり役割だ。

「よく怒らないね」「止めずに見ていられるのすごいね」
そんなふうに今まで何度言われたかわからない。
未熟さゆえにものすごく怒ってしまうときもあれば、つい八つ当たりしてしまうときもある。
けれど、一般的な感覚よりも、汚れるとか、危ないとか、やらかしに対してどうやら寛容らしい。
また、子どもたちとのエピソードを友人に話したときには、「わたしにはそんなに向き合えないな。」などと言われたことがある。
これに関しては、自分でもすごい熱量で向き合っているという自覚がある。
すごく疲れるから諦めたくなることもあるのだけれど、これだけは諦められなくて、数え切れないほど向き合ってきた。
次男は自分の気持ちが分からなくてなかなか言葉にならないのだけれど、それが見えてくるまで根気強く待った。
一緒にいても言葉で伝えないと伝わらないことがあるから、それをわかってほしくて何度も話してきた。
意思の疎通がうまくいかないときは、母親としての自分の気持ちを話したりもした。

わたしの社会性は子どもたちのおかげで身についたものだ。
子どもたちは小さい頃から人懐っこい性格だったから、いろいろな人のところへ飛び込んでいった。
そんなニコニコしている子どもたちを見て、さまざまな人たちが声をかけてくれ、繋がっていく。
子どもたちを見習ってわたしは人付き合いを学び直したんだと思う。

感情は波だ。
どうにかしようともがいてもできないときがある。
だから、イライラしているときは先に伝えるようにしている。
今ではわたしが疲れた顔をしていると「昼寝してきたら」とさらっと言われてしまう。
もう、どっちが親かわからない 笑

数日前に「マラソン大会見にいくね」と次男に伝えると、すごくイヤな顔をしていた。
理由を聞いても話したがらなくて、そのあとしばらくしてからぼそぼそっと教えてくれた。
「見られてると早く走れなくなるから、見てほしくない。」
次男が気持ちを伝えてくれたことがうれしかった。それに、自分の気持ちに気づけていることがそれよりもずっとうれしかった。
もちろん、気持ちを汲んで次男の走りを見にいくのをやめた。

わたしはなんのために前向きな言葉がけをしているのだろう?

前向きな言葉は時に耳障りで、偽善的に聞こえてしまうことは知っている。
それでもわたしは自分のために前向きな言葉を使っている。
なぜなら、苦しんでいる人を近くで見ているのがどうしようもないほど辛いから。
自分のことのように感じて苦しくなってしまうから。
また、誰かの怒りを感じとったときには「ビリリッ!」と体に電気が走る。
だから、明るい未来を見ようとするし、肯定的な言葉を選ぶし、不可能なら自分が安定できる位置まで下がり距離をとる。

その一方で、つらいならいっそ壊してしまって、一から始めたらいいと思っている自分もいる。
得られなくて苦しいなら生み出せばいい。
苦しいなら居場所を変えたらいいし、そもそもの自分の見方を変えてしまえばいい。

不安定になりやすいわたしは距離をとることで自分の安定をはかっている。
自分が安定していなければ、一緒に溺れてしまうだけで誰も助けることなんてできないし、本当に守りたいものも守れなくなってしまうから。
だからこそ、自分を立て直すことを大切にしている。
自分が弱いことがわかっているから。

わたしにできるのは、元気が溢れて出ているときのそれを少しわけることだけ。
そして、自分自身に素直になることだけなんだと思う。
そうそう、忘れてしまうとこだった。
もちろん「楽しむこと」。
これは努力せずとも勝手に楽しんでしまうのだけれど 笑


今日もあなたが心の安らぎと幸福感に気づけますように♪


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