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「見る」とは縛ること?

ハンモックヨガのときに目をつむると身体がゆるんでいくのを感じる。

家でストレッチをしているときも
目をつむったほうが強張りがとけやすい。
不自由になるはずなのに自由だと感じるのはなぜだろう?

目を開けているときには何が起きているのか。

何かを見るということは、何かに目を付けるということではないかと考えた。

「目付(めつけ)」という言葉がある。
これは監視という意味や、武道においては相対したときの相手に対する着眼点のことらしい。


「見る」ことで何かに縛りを設けてしまうのではないだろうか?

息子たちが料理にハマっていたとき、ピーラーや包丁を使っているのをそばで見ているのがこわかった。
見ていると目が離せなくなって、手出し口出ししたくなり、時にしてしまうこともあった。
そのため、気配だけ感じられるようにし、あえて見ないようにしていた。
不思議と見ていなくても危険そうな雰囲気は感じ取れるものだ。


見過ぎることは相手を縛ることではないか?

見過ぎてしまうとき
それは不安の表れでもある。
自分は何におびえているのか。
コントロールできないことへの恐れなのか?


どうしても見過ぎてしまうときは目をつむる。
そうするとガチャガチャしている自分の気持ちにふと気づく。
見えている分、その分だけ見えなくなってることがある。
だから時々は目をつむり、身体をゆるませ相手と自分自身への縛りを解く必要があるのかもしれない。


特別な何かは必要なのか?

息子たちが小学校低学年だったとき、週末になると絵日記の宿題が出ていた。
そのときに疑問に思ったのは、息子たちが出かけたことしか書こうとしなかったことだ。
出かけていない日は書くことがないと言っていて、「家で遊んだことでも、兄弟にムカついた話でもなんでもいいんだよ。」と伝えても聞く耳をもたなかった。

わたしは今、noteで書いている。
最初はやはり特別な出来事を書こうとしていた気がする。
それはまるで子どもの絵日記と同じ。
しかし、書くことを続けていると、たとえ家から一歩も出ない日だったとしても書くことはあると気づくようになる。
続けていくうちに少しずつ細かなことに注意が向くようになるのだと思う。
そして書いた分だけ、自分の気持ちに気づけるようになってくる。
自分のことは、外に出してみないと自分では見ることができない。
だから、書いた文章や人にかけた言葉から自分を知っていく。
それはまるで謎解きゲームだ。
わかりそうで分からない、解けそうで解けないそんなゲームだ。

今日もあなたが心の安らぎと幸福感に気づけますように♪



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