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泣きっ面の研究

 下手な泣き方をしたものだから彼はまぶたがひどく腫れてしまった。手鏡を覗くと、まだ引き付けに歪んだ口元がこわばっていて、普段見えない口もとのしわが固く動かなかった。まぶたが酷く腫れている。まばたきに彼は重みを感じた。白目しろめが唇のように赤い。鼻水はすでに止んだもののまだ呼吸にぐずぐず音を鳴らしている。ごめんねありがとうとお互いに言って、彼女の方が全く丈夫で、よほど泣き虫は彼の方であった。日頃よく涙していた彼女よりも、彼はよほど、思い出というものに弱いのだ。
 さて彼は手鏡を覗きその顔面をくまなく観察している。これは余程珍奇な絵である。一体どういう訳かといえばひとえに彼の癖であった。彼はいつでも自部屋の机に向かう時にはまず手鏡で自らの顔をじっと観察するのが普通であった。三十分も見る時があった。これは奇怪きかいな趣味ではあるが、彼には全く普通であった。へんに顔を造って笑うような事もせず、ただじっと、真顔の口や鼻元を観察してそれきりであった。何の気なしに鏡を覗き、しばらくしたら鏡を仕舞しまって何の気なしに生活を送っているのだ。
 泣きべそかいていた彼もそろそろ冷静になり、鏡に映る泣きっ面も、表情だけは真顔まがおになった。彼の瞳はまだ赤い。そうしてから、彼はどうしてこんなに泣くことがあるのだろうかと考えだした。彼が涙するのは映画とか、あるいは切ない物語を鑑賞した時くらいのもので、生活の上には、彼に直接に関わることには、彼はそう易々やすやすと涙するものでは無かった。一年に一度、いや三年に一度かと、彼は自分の涙を指折り数えて、この度の涙の事について考える。どうやら苦しい涙であった、みっともなかった、こんなに赤い僕の目を僕は今まで見た事がない。彼の鏡を見る癖は随分ずいぶん前からのことで、これまでにも彼は自分の泣きっ面を幾度か観察した事があった。僕の泣く時には、どこか偽善的なものがある、泣こうと思って泣いているのではないか、けれどそんな気持ちがどうして起こっていたのかわからない、涙が先か気が先か、とにかくなんだかみっともなかった。
 彼は頭を悩ませてしまって、遂には泣いていた事が本当であったかどうか、本日のことを疑ってしまうほどであった。彼は全くしらけてしまって、納得のいかぬ様子で鏡を置いた。




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