蝕まれ、転落していく加奈。だが、美頼はそれを止める術が見つからない。あの頃の誰もが加奈に届く言葉を持っていなかった。或いは『フワつく身体』第三十三回。

※文学フリマなどで頒布したミステリー小説、『フワつく身体』(25万文字 366ページ)の連載第三十三回です。(できるだけ毎日更新の予定)

初回から読みたい方はこちら:「カナはアタシの全て……。1997年渋谷。むず痒いほど懐かしい時代を背景にした百合から全ては始まる。」

前回分はこちら:二十年越しに環によって暴かれる加奈の秘密。そして、犯人は言う。「加奈は生きている」と。或いは『フワつく身体』第三十二回。

『フワつく身体』ってどんな作品?と見出し一覧はこちら:【プロフィール記事】そもそも『フワつく身体』ってどういう作品?

本文:ここから

▼参考文献より引用

Q・「このあいだとつぜん、彼氏に『今、目の前に狂った奴が現れて銃を撃ってきたら、俺は死んでも楯になってお前を守るから』って言われました。そのとき、彼氏には悪いけど、何ひとりで盛り上がってるんのって感じで思いっきり気持ちが引いちゃいました。私は冷たい女なのでしょうか」(14歳・女・中学生MK)、「夜のバイトをしているのですが、困ったお客さんがいます。来るたびに毎回指名してくれて、そういう意味ではいいお客さんなのですが、『愛してる愛してる』とうるさく、はっきり言ってうざいです。私は割り切った関係でいたいのに……どうしたらそのことを分かってもらえるでしょうか?」(22歳・女・大学生KT)、「援助交際で知り合った女子高生のことで相談があります。本当の愛情を知らずに、日々流されている彼女をのことを救えるのは周りを見ても僕しかいないはずなのに、彼女は僕の気持ちを分かってくれません。宮台さんはこんな僕のことをバカ男と言うかもしれませんが、彼女に対する真実の愛のどこが間違っているのでしょうか」(32歳・男・会社員)

 A・フレーゲは言葉の意味(真理値)と意義(思想)を区別しました。真理値というのは、現実社会における対応物(の有無)で、思想というのは文脈次第で変わる共有可能なイメージのことです。たとえば「明けの明星は明るい」と「宵の明星は明るい」という言葉を比べると、思想においては別物ですが(人々が別の文脈を共有しますが)真理値においては同一で、「明るい金星が存在する」という同一の現実世界に対応しています。

 ところで、フレーゲによれば、言葉について真理値を求める態度と、思想のみで満足する態度とが区別できます。その上でフレーゲは、人間が思想のみ(小説・演劇・冗談……)で満足しないのは《人には真理値を求める傾向がある》からだと述べます。果たしてそうでしょうか。「真理値を問うコミュニケーション」と「問わないコミュニケーション」の区別は示唆的です。これはちょうど若い子たちのいう「イケてないコミュニケーション」(真理値を問う)と「イケてるコミュニケーション」(真理値を問わない)の区別に対応しています。例えばオタクですが、岡田斗司夫みたいな原オタク世代を、私は「オタクの階級闘争」と呼びますが、ウンチクを競っていました。どちらが知っているか、どちらが正しいのかという真理値競争をする。だからこそ《オタクもいよいよ国際的だ》などと上昇したがるのわけです。これは世間で上昇できない人たちの「もう一つのマッチョ主義」だったので、世間から差別されましたが、最近のオタクからはこういうマッチョ主義的な真理値闘争は消滅し、“ときメモ”なら”ときメモ)の話題一つで延々と戯れる幸せだけを追求するようになっています。
 これは「プリクラ・たまごっち、超オッケー」と戯れ続けるストリート系の女の子たちと何の違いもありません。結局「真理値を問わないコミュニケーション」の戯れとして横並びになることで、オタクと非オタクの間に本質的な違いがなくなったんですね。

 一般的に男は真理値を問う「イケてないコミュニケーション」に淫しがちで(旧オタク)女は真理値を問わない「イケてる」コミュニケーションに熟達しがち(コギャル)。しかし、昨今の男も、オタクの変化に見られるように、「イケてる」方向に進化しつつあります。『まぼろしの郊外』(朝日新聞社)で「愛の歴史」について詳しく書きましたが、愛のルーツは、崇高な神に近づくという宗教的観念です。神は「絶対の真理」ですから、愛は、「真の心」や「真の姿を問題にする。「真理値を問うコミュニケーション」であり続けて来たのです。

 ところが、真理値を問うコミュニケーションには期待はずれがツキモノなんですね。その期待はずれは、オタクの階級闘争なら「敗北」、マルクス主義のような社会思想なら「現実からの乖離」、男女の愛なら「裏切り」や「偽りの心」だったりします。そんな期待はずれにおびえて自己防衛に汲々とするからイケてない。イテテ……。というわけで、ヨーロッパをはじめとする成熟社会では、サッカー(十代)・ダンス(二十代)・セックス(三十代)と、真理値を問わないコミュニケーションの戯れがますます重要になりつつあります。
 そして日本。もともとこの国には神=絶対の真理はありません。伝統的に、真理値を問うコミュニケーションなんかどうでもいいのです。昨今、性の低年齢化や売春化など「伝統への回帰」が著しいのですが、それに「真理値放棄=愛からの開放」を加えていいでしょう。回答です。中学生MKさん、あなたではなく彼氏が異常だ、すぐ振りなさい。大学生KTさん、バカ客に分からせるためには、愛に答えるフリをして激烈に振り捨て、二度と人を愛せないように懲りさせましょう。会社員ASさん、真実の愛だから間違っているのです。

 男性諸君に告ぐ。

 婦女子の保護のため、真実の愛、絶対禁止!

 違反者は即死刑!

 ※藤井誠二・宮台真司(1999)『美しき少年の理由なき自殺』メディアファクトリー pp133-137初出 宮台真司(1997)「世紀末相談」『ダヴィンチ(1997年11月号)』メディアファクトリー)


●一九九七年(平成九年) 十一月二十四日 世良田美頼の日記


 あれから、アタシとカナの間には溝ができてしまった。

 あのあとも何度も、カナにはシャブを勧められたけど、アタシは断りつづけていた。

 シャブをキメながら、ヨシキに抱かれているカナはもうアタシの知っている完全体のカナじゃなかった。

 あのときのカナは、悩ましく、美しかったけれど、アタシと天女のつがいだったころの気高さはもうないんだと思った。悲しかった。

 ヨシキはなんでもないようにデートクラブに出入りを続けていた。

 ただ、最近、金貸しの仲間にもなったみたいなことを聞いた。よくIDOの携帯電話から、ちっちゃい釣り竿みたいなアンテナを伸ばして、なにかを話している姿を見かけた。

 カナからいい相手を紹介してもらったとか言ってたけど、アタシはヨシキの口にカナの名前が登るのが嫌だった。

 アタシはそうやってやりきれなくなると、お菓子を食べた。むさぼると言うのだろうか。デートクラブに置いてあるやつじゃ足りなくなって、もらったお金でコンビニに行って、トッポだとかポッキーだとか、カールだとかドンタコスだとか大量に買い込んで、控室で食べた。食べまくった。

 そうして、お腹いっぱいになるとトイレに行って、喉の奥に手を突っ込んで吐いた。

 吐いてしまえば、もう太ることはない。

 本当、なんて簡単なことだったんだろう。

 それから、デートクラブにもいづらい感じがしたので、何回か一人で学校に行ってみた。

 クラスにいると「キムタクと松たか子の『ラブジェネ』見た?」とか

『ごっつええ感じ』が突然終わるらしい」とか、テレビの話題が聞こえて来た。

 それから、オタクグループの子が、ウテナとか言う変な名前のアニメについて話していた。ウテナってくせ毛用のシャンプーとかストパー剤の、プロカリテシリーズ出してるのがそんな名前の会社じゃなかったっけ?

 で、そこに剣道部のデカ女のタマキが現れて、「わが校のウテナ様」とか呼ばれてた。

 デカ女は「やめてよー」とか言ってたけど、高校生にもなってアニメキャラになぞらえるとか、オタクって超痛いなって思った。

 で、クラスを見ていると、みんなの様子があまりにも普通すぎて、ここにももう、アタシの居場所はないって思った。

 シャブをキメながら、ヨシキと一緒に乱れるカナを思い出して、カナとアタシはあまりにも遠い場所に行ってしまったんだと思った。

 そう思いながら、ボーっとしていたら、そのウテナ様とか呼ばれていたタマキがアタシに話しかけてきた。一学期は自分から無視してたんだけど、もう、今になるとなんて返事していいのかも分からなかった。

 やっぱり学校のみんなはもう、ガラスの向こうにいるみたいだ。

 家にも帰ってみたけど、結局、ママとはケンカしちゃうし、(食べ過ぎて吐いてるところを見られて、超怒られたんだった、どうして? アタシがやせればそれでいいんじゃないの?)

 そんなことがあったのが、今月のはじめぐらいの話で、アタシは結局デートクラブに戻って、指名が入ったらオヤジと援交していた。

 でももう、カナにはアタシを清められるだけの効力がなくなったのかもしれない、と思うと援交もなんだか本当に汚らしかった。でも、しょうがない。

 カナは、見かけるとボーっとしていたり、意味なくヘラヘラしていたりしていた。

 気がつくと、カナの持ち物がいろいろなくなったり、変わったりしていることに気づいた。

 ヴィトンの財布はなんかよく分からないサンリオのやつになっていたし、ショウにつれていかれた変な勉強会のあたりから持っていたシャネルのミニバッグも、ずっと使ってたコーチのバッグも見なくなっていた。

 気にして、控え室の隣の部屋のカナの荷物が入ったコンテナをたたくと、本当に中身が入っていない、軽い音がした。

 カナに聞くと、カナはヘラヘラ笑いながら、「売ったー」と答えた。そうか、ぜんぶドラッグに消えたんだ。

 カナの指にはまだ、アタシがはめてあげたトパーズの指輪が光っていた。

 もしかしたら、これももうそろそろ、売られてしまうのかもしれない、と思うと苦しかった。

 で、今日なんだけど、珍しくカナと同じ時間にデートクラブにいた。

 テレビがついていて、ニュースの中でオジサンが号泣していた。

「これだけは言いたいのは、私らが悪いのであって、社員は悪くありませんから!」

 バブルが崩壊してから、ずっと経営がヤバかった山一證券が破綻したらしい。

 テレビCMでも街の看板でもよく見かける会社だから、これは大変なことなんだと分かったけれど、バブルのころはアタシはまだ小学生だったし、詳しいことはよく分からなかった。

 そしたら、カナが突然、

「ねえ、ここ寒くない?」

 って言いはじめた。

「ぜんぜん寒くないよ」

 冬が近づいてきていたけれど、部屋の中は空調が効いていて暑いぐらいだった。

「そんなことないって、絶対寒いって!」

 そう言ってカナは両腕をさすった。すると、次は

「なんか虫いない?」

 って言いはじめた。

「え? なんで、虫なんていないよ。もうすぐ十二月だよ」

「うそ、いるって! ていうか足にとまってるし! 気持ち悪い!」

 って言いながら、カナはスカートから覗いている太ももを手で払った。でも、アタシの目には何も見えなかった。

 カナの肌はカサカサして、艶がなく、少し黒ずんでいるように見えた。

「ねえカナ。ヤバいよ、それ」

 そうだ、中学のとき、保健室の前に張られていた壁新聞には、ドラッグをやりすぎると暑いのに寒く感じたり、寒いのに暑く感じたりするようになるとか、何もないのに虫が這っているように感じるとか書いてあったのを思い出した。

「ねえ、カナ、ヤバいって。クスリ、やりすぎてるんだよ」

 でも、カナはアタシには何も言わずに、出ていってしまった。

 きっとカナはあの部屋、ヨシキとシャブをキメていたあの部屋に行ったんだと思った。アタシは心配だったけど、あそこには近づきたくなかった。

 少ししてから、しばらく見ていなかったショウの姿を見かけた。大学の帰りみたいで、ちょっとダサい斜めがけのショルダーバッグをかけたままだった。

 ショウは、アタシの姿を見つけると、手招いた。お客さんのマジックミラーから見えない場所で、アタシはショウと話した。

「ねえ、最近、カナと連絡がとないんだけど、どうしてる?」

 アタシは黙るしかなかった。

「まあ、もしかしたら振られてんのかもしれないけどさ、でもなんか気になってさ」

「ショウは最近、どうしてたの?」

「オレももう、大学三年の後期だから、ゼミとかちゃんと出ておかないと卒業ヤバいし。それに、就活もさ、そろそろ準備しなきゃなって、わりと真面目にやってた。大学入ったときは院に進むこと考えてたけど、ここ一年、マキガミにハマって遊んじゃったから、就活するしかなさそうだし。でも、就職、厳しいからなあ」

「そうなんだ」

「ゼミが最近忙しいとか、就活もはじめるしなんてことを話しはじめた途端、カナと連絡がとなくなっちゃって。なにか気にさわるようなこと言ったかな、まあ嫌われたんなら、ちゃんと理由知りたいじゃん」

 アタシは周りに、ミツルもヨシキもいないことを確認して、

「じゃあ、付いてきて」

 ってショウに言った。

 ショウがいれば、あそこに近づいても平気なような気がした。

 アタシとショウは、ほこり臭い古いマンションの階段を登って、あの鉄の扉の前に立った。

「カナ、いるんでしょう?」

 そう言って、アタシはドアノブに手をかけると、鍵は開いていた。

 カナはあのソファーに座って、注射器を打っていた。

「やっぱ、ポンプはスニッフとぜんぜんちがう。打ったら、あの虫もいなくなったよ」

 とカナが言った瞬間だった。

 ショウが駆け寄ってきて、カナの手をはたいた。

「カナ! お前、なにやってんだよ!」

「なにって、見れば分かるじゃん!」

 カナはニヤニヤ、ヘラヘラしていた。

「覚せい剤なんてやったらお前! あとでどうなるか分かってんのか!」

「あと? あとってなに? 今が良ければいいんじゃん。ショウだって、今ココをまったりたのしめばいいって、マキガミにハマって女の子食いまくってたんじゃん。それが最近、なに? ゼミとか就活とか! なに先のこと考えはじめてんの? なに、バカなの?」

 カナはアメリカの映画みたいに、手を上に向けて肩をすくめた。

 ショウはそんなカナに向かって、声を大きくした。

「オレのことはいい! お前のことだ、シャブなんてやめろ! 一度中毒になったら抜け出せない、お前だって知らない訳ないだろう!」

「中毒? 残念でした、もうとっくにシャブ中ですー! どうしてシャブ中になったらダメなの? どうして援交は良くて、シャブはダメなの? 今、ココにいるアタシがやりたくてやってるんだから、それでいいじゃん!」

 カナはそう言ってショウをせせら笑った。

「シャブは、カナの未来を壊す。この先、禁断症状や中毒症状に苦しめられる。今、ココは明日のお前につながっている。シャブは明日のお前を苦しめる」

「明日なんてどうでもいいじゃん。辛かったら死ねばいいんだ」

 そう言って、カナはソファーの前のガラステーブルを指差した。そこには、このあいだカナがつけていた、銀色の筒に安っぽいボールチェーンがつながっている、ペンダントが置いてあった。カナが笑いながら言った。

「さっきチェーンのとこが痒くて外しちゃったんだけど、その中、青酸カリが入ってるんだ。ヤバくなったらいつでも死ねるし」

 ショウは黙った。黙ったまま、テーブルの上のペンダントを見つめていた。

 アタシはビクビクしながら、二人の間に入っていった。

「カナ、ショウの言うとおりだと思う。やっぱりシャブは良くないと思う」

「ミヨリまでなんでそんなこと言うの? ていうか、ボクとずっと一緒に援交してたじゃん! どうして、援交は良くて、シャブはダメなの?」

「分かんない、でも、シャブは引き返せないと思う。きっとダメだと思う」

「え? じゃあ、逆にどうして援交は引き返せるの? どうして?」

 アタシは何も言えなかった。言葉を探すというよりも、カナの態度が怖くてたまらなかったんだ。

「ミヨリが言えないなら、教えてあげる。ミヨリは援交が悪いことだってずっと思ってたんだ。じゃあなんでボクと一緒に行動してたのか。中学のとき、デブでダサくてそれがコンプレックスだったミヨリは、オヤジたちが自分に魅力を感じてくれることが嬉しかったんだ。オヤジが自分にチンコおっ立てればおっ立てるほど、自分の価値が上がったように思ってた。ちがう?」

「カナ! やめて、カナ!」

 アタシは耳をふさいで、その場にしゃがみこんだ。

 カナの言葉はとてもとても汚くて、アタシはこれ以上聞きたくなかった。
 上からショウの声がした。

「カナ! もうやめろ! シャブなんてやるな! やっちゃいけないものはやっちゃいけないんだ!」

「どうして? どうしてボクがこれでいいって思ってるんだから、いいでしょう。ボクの責任でボクが打ってるんだ。どうして、ショウがボクの人生になにか言う権利があるの? どうしてそんなこと言うの?」

 アタシは顔を上げて、カナとショウの顔を交互に見た。ショウは、少し黙ったあと、拳を握りしめて、言った。

「それは、……たぶん、オレは、カナを愛しているからだ」

 しばらく、沈黙が流れた。

 すると、
 カナは思い切り笑いはじめた。お腹を抱えて。

「アーハハハハハハハハハ、アハハ、アハハ、なにそれ、超ウケるんだけど、超ダサい、超キモい、アハハハハハハハハハ。本当、ダサい、キモい。アハハハハハハハハハ」

 カナは本当に、体をくねらせながら、ショウのことをバカにして笑いつづけていた。

 ショウは顔を赤くして立ち尽くしていた。すごく恥ずかしかったんだろう。

 ショウは顔を真っ赤にしながら、テーブルの上のペンダントをつかんで、ズボンのポケットにしまった。

「何すんの!」

 そう言って、カナはショウにつかみかかろうとしたけど、足がもつれてその場に転んだ。カナの体がガラステーブルの上に落ちる。でも、テーブルは割れなかった。

 カナはひじを打って、痛そうに体を曲げていた。

「そのぐらいなら、死なないよな」

 とショウは言うと、アタシの手をつかんだ。そして、マンションの鉄の扉を開けて外に出た。

「カナ、大丈夫かな」

 アタシがそう言うと、

「シャブ中とひじを打つんなら、ひじを打つ方がぜんぜん、大したことない」

 と、ショウは前を見たまま返した。たしかにそうだった。

 そして、マンションの階段を降りきると、ショウは

「ミヨリ、時間あるか。話したい」

 と言った。二人で黙ったまま、道玄坂の方まで行って、ドトールに入った。

 アタシはショウに千円札を渡されて、

「これでオレの分のブレンドコーヒーと、ミヨリは好きなもん頼んでいい」

 って言われて、アタシはショウの分のコーヒーと、アタシの分のカフェオレを頼んだ。こんなときだと言うのに、ショーケースに入ったミルクレープが輝いて見えた。でも頼まなかった。でも、こんなときまで食欲に支配されている自分が惨めだった。

 アタシはショウの待つ席まで、二人分のドリンクを運んだ。そして、しばらくそのまま黙った。

 ショウは、コーヒーには口をつける様子もなく、

「オレはどうしたらいい? カナを止めるにはどうしたらいい?」

 そう言ったまま、ショウはうなだれていた。

「ショウはダサかったと思う。よく分かんないけど、でも、ダサいことと間違っていることはたぶんちがうと思う」

 アタシはそう言ってみたけれど、ショウはうなだれたままだった。

「いや、オレは間違っているんだ。正しいのはカナの方なんだ。マキガミの言うことが正しいのなら、オレはただひたすらダサくて間違っているんだ。でもシャブ中になってボロボロになる彼女をオレはただ、黙って見ていろっていうのか」

 そう言うと、ショウは斜めがけのカバンから一冊の雑誌を取り出した。
「マキガミの連載が載ってる。愛なんて言うやつはダサいどころか、真実の愛なんて禁止しろ、違反者は即死刑、とまで言ってる」

 アタシは雑誌の後ろの方に載っていたマキガミの文章を読んだ。難しくてよく分からない言い回しもある。

 フレーゲという学者さんがいて、コミュニケーションには、真理を問うものとそうでないものがある、と言ったらしい。マキガミが言うには、真理を問うコミュニケーションはもうすごくダサいもので、愛というのは、神様に近づくという真理を問うコミュニケーションなので、一神教じゃない日本にはもともと存在しないから、期待はずれなだけで、やめた方がいい、愛とか言うやつは異常だから、もう人を二度と愛せないぐらい傷つけてやれ、みたいなことが書いてあった。

「なんか、言い回しが難しいし、アタシ、フレーゲさんて言う人のこと知らないからなんかすごそうって思っちゃうけど、マキガミっていうオジサンが間違っているのかもしれない。だって、すごく嫌だもん、あんなふうにシャブに飲み込まれて、アタシに向けてあんなふうに言う、カナ」
「そうか、マキガミは間違っていたのか。マキガミの言葉にこそ救いがあると思っていたオレはなんだったんだ。バカみたいじゃないか」

 ショウは机をたたいた。コーヒーカップがソーサーの上でガシャンっていう音を立てた。中身がちょっとこぼれた。

「じゃあ、オレはカナを止めるためになんて言えばいい? カナを納得させる前に、カナが間違っているってオレ自身を納得させられる言葉はどこにある?」

 ショウとアタシの間には何も言えない時間だけが流れていった。

 何分かそうしていただろうか。

「ああそうだ、きっと、半世紀前に特攻に志願した若者は、こんなふうな未来を望んでいなかったはずだ。今が良ければそれでいいって、シャブに溺れる女の子をそれでいいって、許さないはずだ」

「分かんないけど、なんかそれは突飛だと思う。カナだってそんなやつのことは知らないって言って終わりじゃないかな」

 ショウの言葉は本当に突飛な感じがした。そんな突飛なものを持ってこないと、たしかなものってないんだろうか。

「じゃあ、なにを言えばいい、どうすればいい? ミヨリはどう思うんだ」

 アタシは言葉を見つけられなかった。

 そうだった、アタシはママにやせろって言われてきたからやせて、カナが援交しようって言うから一緒に援交してきただけだった。

 ああ、そうだ。
 アタシは自分の言葉を持ってない。

本文:ここまで

続きはこちら:第三十四回

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※この話はフィクションであり、現実の人物、団体、施設などとは一切関係がありません。

※警視庁の鉄道警察隊に渋谷分駐所は存在しません。渋谷駅、及び周辺でトラブルにあった場合は、各路線の駅員、ハチ公前の駅前交番、渋谷警察署などにご連絡ください。

※現在では、一九九九年に成立した児童買春・児童ポルノ禁止法において、
性的好奇心を満たす目的で、一八歳以下の児童と、性交若くは、性交類似行為を行った場合、
五年以下の懲役若くは五百万円以下の罰金、又はその両方を併科されます。
本作品は、こういった違法行為を推奨、若しくは擁護するものでは決してありません。

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