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絶対壮絶な物語がある

1993年(平成5年)4月18日、木村政彦死去。

1993年W(平成5年)11月12日、第1回アルティメット大会開催。

1994年(平成6年)4月26日、大山倍達死去。

1994年(平成6年)5月1日、福岡ドームでグレート・ムタと対戦し、フォール勝ちを収めるもののこの試合より引退への布石となる「イノキファイナルカウントダウンシリーズ」が始まったアントニオ猪木。

1994年(平成6年)7月17日、塩田剛三死去。


「木村の前に木村無し、木村の後に木村無し」と言われた柔道会の不世出の天才。木村はただ組んで良し寝て良しの単純なグラップラーじゃない。剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い打撃技を習っていた。特に剛柔流空手においては、師範代を務めるほどの腕だった。打撃もできるのである。いわゆる総合格闘家。得意の大外刈りは踵で相手の足を蹴りながらなぎ倒すという打倒同時の極め技でもある。

ヘーシンクもルスカも勝てないうと言わしめ、全盛期の山下泰裕よりその時点での木村の方が強いと言われたその木村が死んでアルティメット大会が開催された。主催者はグレイシー一族だ。

グレイシー一族は無敗を誇っているが、エリオ・グレイシーが木村に腕を折られている。ギブアップこそしなかったものの、セコンドのタオル投入で敗北した唯一の相手だ。その木村が死んでからアルティメット大会が始まり、そして翌年には空手界の巨星と合気道界の巨星が死んでいる。

コレは偶然か?そんな上手い偶然認めない!

どっかでやったに違いない。武人が武人の命と誇りを賭けて。強いやつと強いやつがいたなら闘わずにいられようか。磁石が吸い寄せられるように、集まり、雌雄を決するに決まってる。

少なくともオレはそう信じる。そう願う。

地上でK-1GPが始まったのが1993年4月30。パンクラスが旗揚げされてガチンコのプロレスが始まったのは1993年9月21日。

1993年、日本の、世界の格闘技が始まった。そして地下のどこかで何かが行われた。1994年、古い伝説の時代は終焉を迎えた。

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