47 悩める人間

自己愛、について話をしたい。これは自分にとっても自信がない、避けて通りたい話題なのだが。
漸進法で進めると、この避けたい話題も、自分の枠を超えて見知らぬ終着駅に到達するのだろう。

1。宗教は自己愛に否定的である。それは神への愛の対極だから。
2。誰もが神を信じているわけではない。しかし、自己愛という言葉は無神論者の中でも気になる。まずは、無神論者の立場から自己愛の話をしてほしい。
3。これは、無神論者と神を信じる者とでは自己愛に対する考えが違うことを暗黙の了解にしているのでは。それは先入観だ。
4。神を信じる人は自己愛から解放されるのであり、異次元にあるわけだ。
5。異次元か否かは自己愛を考えて行くうちに明らかになろう。まずは自己愛を考えてみよう。
自己愛は人間が身につけている本来的なものかも知れない。人は無の世界から生まれて生の世界に入り、そして無の世界に移って行く。未来の無を考える人もいるし、生前の無を考える人もいる。無の世界から見ると、自己愛は瞬間的であり、特殊なのかも知れない。自己愛は現世だけに存在し、個人差がある。
6。人の数だけ自己愛があるという意見に誘導されるのだが、賛成しかねる。自己愛にも一定の傾向がある。ナルシシズムとセルフラブ、に分類して、前者が病的であり、後者が健康的と考える。
7。その病理的側面は学者が多くの理論を掲げていて、百花繚乱とも言える。科学的な分析は疾患の変化に呼応してこれからも多くの学説を産むのだろう。
8。今回は疾患の話をしたいわけではない。自己愛全体を考えたいのだ。自己愛の対極を考えると利他愛と言うこと、これとの対比で話を進めて行かないと全体像が掴めないのでは。
最近、ラジオから「あなたの幸せをお祈りします」と言う優しい言葉が伝わって来た。彼女はヨガの瞑想を勧めていた。瞑想してマインドフルネスに導かれると、今の自分に集中できて、自分が豊かになる。自己愛の豊かな心からこの言葉が生まれてくるのだから、自己愛と他者愛、利他愛は根は同じなのだ。瞑想により良質のエネルギーが生まれて、それが他者にも広がる。
9。瞑想にて救われたり、解決できる事は理解できる。しかしながら、人類が今後1万年生き伸びたとしても、自己愛、利他愛の不透明感は払拭、解消されていないと思う。
10。自己愛の対極はなんだろうと言う話は利他愛では無いことは分かってきた。自己愛も利他愛も愛には変わらない。自己愛と利他愛は対極の様に見えるのだが、対極ではない。色々と分析がなされ俎に載るのだが、自己愛や利他愛を細切れにし分類すると偶々そうなるだけなのだろう。自己愛は流動的で、それが多彩な姿に変貌する。自己愛が紆余曲折の果てに利他愛になっても不思議では無い。考えれば考えるほどに自己愛の対極は分からない。敢えてあげるとしたら、無関心であろうか?
この議論の中に神への愛は影も形も無い。
神への愛と自己愛は永遠に交わら無い平行線を保って存在し続けるのであり、対極として向き合っているのでもないし、競っているのでもない。自己愛をいくら眺めても神の愛は見えない。ここに二者択一の話が浮上して、迫って来る。

11。神への愛を誓うべきなのだろうか。そうかも知れないが、大多数の方が自己愛を選択するのであろう。そうしたとしても幸福への道が閉ざされたとは思えない。マザーテレサは『愛の反対は憎しみではなく無関心」』と言いきった。自己愛も愛の一部である。マインドフルネスに満ちた自己愛は無関心から心を解放する。その離脱からもっと深い愛に繋がる。そんな好循環は幸へと導く。その様な幸福を目指して人は工夫する。それが進歩の実態であり意味なのだろう。ここで自己愛と幸福と進歩が結びついた!
神への愛に関しては言葉に現せないものであろうが、神の存在を感じて否応なしに生まれてくるのだろう。神を至近距離に感じていれば尚更である。
交わることのない自己愛と神への愛の両方を心に持ち続けること、不可思議なことでは無い。自然を見つめながら、超自然を感じる人は多々いるのだ。
深い信仰心を持つ科学者がいてもおかしくないと言う前回の話に繋がるのである。

人間は不思議です。




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