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# 40 悩める人間

愛という概念は?そんな話題を取り上げてみる。難解でもあり、果てしない議論が展開されてきた。
漸進法で考察した。

昔から自己愛、言い換えると自我には多くの見解がある。
大多数、否定的だ。これを邪欲とまで言う人もいた。
自己愛はそれを指摘されると、猛烈に反発して、指摘者を抹殺する場合もある。その激しさの余り、多くの人は嫌悪感を抱く。極端ではないとしても、感性が拒否反応を示す。
だから、自己愛を見せない様に振る舞う。一見ジェントルに見えるのだが実は虚栄的である。

自己愛であろうが、自他愛であろうが愛は愛であろう。対象が違うだけで、愛は標的に吸い込まれるように、重い自分を軽くしながら、激しい勢いとエネルギーで愛する標的に向かって行く。
愛の実態はエネルギーそのものなのである。

その標的を自己と自他に分類して、前者を間違いであり、罪深いとするのは余りにも古い考えではないだろうか?人間否定にも見える。

自己愛を包括するような、自己愛を認めるようなルール作りが必要だ。
お互い、自分を愛するのであろうが、それらの調整する、そんな理念が確固たるものとして生まれてほしい。それをSDGsの様に国連に求めるのも一考であろう。国のルールに織り込むとしたらさらに効果がある。

しかし、自他愛に感性が自然と導く事もある。それを取り残して良いのだろうか。自己愛に偏重したルール作りはおかしい.

要するに、愛=エネルギと考えて、エネルギーの向かう先を限定するのではなくて、波動というか、愛のウエーブというか、そんな昇華した愛を考えるべきでは?。

具体性に欠ける話でもあり、波動はそもそも何だ?

魂を救うような揺れとかリズムはある。

人間社会は進歩という列車に乗っている。進歩は向かう道中、魂を心地よい揺れに誘う。愛の主なる標的は進歩では無いだろうか。

しかし、運命と自我との葛藤に焼け焦げ,絶望してしまう人生だって少なくない。愛と進歩と言うが、虚しく感じる。

愛を昇華させると、それが持つエネルギーと波動は運命の壁をも乗り越えられるはずだ、人間の進歩を信じ、愛を信じるしかない。

信じると言う言葉で、この話は終了するのか?この先があればと思う。

これで終了はしない。神をどう考えるのかという話題が残っている。

宗教は現存する。しかし、これまで考えてきた愛と関連は無いように見えるのだが。

ローマ時代の聖アウグスティヌスのよる「二世界論」と呼ばれる思想が述べられている。「神の国」と「地の国」のことで、前者はイエスが唱えた愛の共同体のことであり、後者は世俗世界のことである。「地の国」において信仰を代表しているのは教会であり、その点で教会は優位性を持っていることは間違いないと主張している。

しかし、彼の考えはローマ教皇の絶対的権威に繋がり、さらには、中世の暗黒時代をもたらしたではないか?

確かに歴史は2世界論には結論を突きつけている。地の国という考えは、愛のエネルギーを失わせてしまう。例えば、能登半島地震での多くのボランティアは純粋な愛であり、力である。この様な自然な感性から発する愛情とエネルギーは現世にも沢山ある。それらはキリスト教的に解釈すれば、イエスの愛の共同体、神の国が現世にあると言うことであろう。

神の国は進歩とどの様に関連しているのかわからない?

2世界論を否定するつもりはない。神の国は存在し続けるのだ。現在の人間社会にすでに、それはあるということだ。一方で、地の国も存在するのだ。それは人類が前に進み、進歩を続ける、そんな世界へと愛が誘うと考えてはどうだろう。

この話は他の宗教でも考えて行くべき。

以上、話は続くのであるが、この辺で、打ち止めとしたい。

お疲れ様でした。



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