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#49:落語グラス(世界の見え方)

落語との出会いはもう10年以上前だが、熱狂的なファンでもなく、飽きるでもなく、低い温度で生温かい付き合いをしてる。

春風亭一之輔さん、古今亭菊之丞師、瀧川鯉昇師匠という、特にこだわりのないミーハーな趣味。あえて言うと、関西出身もあるが、桂米朝という背骨は少し特殊かもしれない。

生温かいファンなので、落語を自ら批評するような了見(←使ってみたいだけ、、、使い方間違えてる?)はない。

寄席や落語会をライブで時折楽しむ。でも大半は音声や映像でひとり聴く。でも落語に出会って良かった点は、その楽しみだけではなかった。実は、落語そのもの以外の効能があった。

落語の世界観

2つくらい効能があったのだが、一番は落語の世界観が自分にインストールされたこと。まあ一言では言い表せないが、落語の中に流れる、四角ばらず、緩く、そして俯瞰での世界観。解釈は様々だと思うものの、基本的に、人の煩悩や日々の暮らしを笑ってしまおうという感じ。

シニカルだけでなく、そこに愛おしさやぐずぐずのダメな人が居たり、小さいカオスや狂気も含む合わせ鏡の世界。

今現在生きてる自分の周りと、落語の中に住む市井の人々と暮らし。この二つの世界を行き来することだけでも、得るものは多い。

落語グラス(眼鏡)

何を得るのか。分かりにくい話なので、少し例示。(ただし架空の話)

端的に言うと、日々の暮らしで落語グラスをかけていると(=世界観がインストールされていると)、目の前のことが色々と変換される。

少しせっかちだけど筋を通す上司は棟梁に見えるし、少しポーッとした後輩は与太郎で、奥さんの尻に敷かれて粗忽なのは自分自身。

そこまでデフォルメしなくても、あの取引先の人が怒って発した一言は、落語的には良い啖呵だったなーとか。あと、いつも人のマネしてミスする様子は、とても小咄的だなー(隠居や奥さんの言う通りにセリフを言えない)とか。

日々の出来事に、脊髄反射でムカッとはする。するけど、そのあと反芻すると、怒りは湧いてこない。反芻する時に落語変換されるようだ。すると、笑える話なのに笑わず仏頂面している自分の方がかなり滑稽に思える。

言い換えると、落語グラスは、不完全な世界をありのままで受け止める眼鏡かもしれない。

むしろ、普段のものの見方が歪んでいるのかもしれない。全て綺麗に矯正されてノイズカットされることが前提になっている。綺麗事と加工の世界。そんな作り物の都合の良い世界を一刀両断する、当たり前のドロドロを包み込んで笑える世界観グラス。

もうひとつの効能

は、落語家という職業の人たちを知ったこと。職人でもあり、お笑い芸人でもあり、広くは自営業のアーティスト、とも言える。

ここに主戦場を置ける人はまず尋常じゃないと個人的に思うのだけど、少し長くなったので、今日はここまでにする。

長文をお読みいただきありがとうございます😭

サポートなんて恐れ多いので、代わりにコメントいただけたら嬉しいです。