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雑記1

哲学的な問いについて考え、まとめ、発信したいと考えてはいるが、最近はリアルの生活が忙しく、なかなかゆっくりと考える時間もない。そこで今回は、私の現状の思想や今後考えたいお題などについてざっくりと適当に語りたいと思う。

思想

これまで「~とは何か?」というお題について考えてきた(2個しか出していないが)。これからもそういう形式で出そうと考えているが、そもそもの前提である「私がなぜそういう考えをするのか」「その思想は?」というところを話しておきたいと思う。

まず、私は、いわゆる現実主義者に分類されるのではないかと思う。神や宗教だけでなく、人間同士の意思疎通や自分という存在まで、すべて現実に即して考えたいと思っている。別の言い方をすれば、すべての思い込みや理想を排除し、現実を突き止めたいと考えている。
思想としては、唯物論者に近いと思うが、少し異なるだろう。思い込みをなくすためには、そうした考えも排除する必要がある(なお、現実主義と唯物論についてはあまり詳しくないのであくまで予想)。

また、「そんなものは存在しない」「人間の思い込み社会の中にのみ存在する」という考えを多用し、自然をベースとして考えることも多い。この自然とは、野生の動物界という意味ではなく、人間や生物の視点から脱して考えるということである(野生の動物界について想像してみることもままある)。

これから考えたいお題

現在、書こうと考えているお題について7つ取り上げ、その大まかな内容や現状を書いた。思考中であるため、暫定的な考えとして受け取ってもらいたい。

「善と偽善」
以前、自己満足についてのnoteを書いたが、それと近いお題であったため、ついでに考えようと思い、現在執筆途中である。ここでは主に「善と偽善のちがい」について考えているが、善の定義自体が難しく、自分としては納得できる結論が出せていない。そのため、そもそも書き上げられるかが怪しい。善と偽善の「ちがい」であるため、善や偽善の「定義」について論じる必要もないか、と考えている。
少し趣旨とはずれるが、「善と偽善」の2つを総合した名前がある方が考えるときに便利なので、例えば「善の中に純善と偽善がある」などのように定義しなおすと良い(便利)のかなと思った。

「べき論はすべて間違っている」
これは、世の中の意識高い系の人がよく言う「○○すべき」「○○であるべき」を否定するという趣旨である。
ざっくりと説明すれば、「世の中に絶対的にすべきことは存在しない。べき論について話すには『○○を実現したい』などの前提条件を明確にしなければ有用ではない。そして、その前提条件について、いかなる理由を述べようとも絶対的に優先されるべきものはない。等しく並列である。」という内容で考えている。
しかし、ここに書いた分で十分かもしれない。

「人はなぜ幸せを求めるのか」
「幸せになるために生きている」「幸せなら良い」という話をよく聞く。また、「幸せとは何か」という問いもよく聞く。私は天邪鬼なので、人が「○○とは何か」を考えていると「なぜ人は○○とは何かを考えるのか、または、求めるのか」を考えたくなるので、このお題である。
加えて、「幸せとは何か」「幸せは感情なのか」「人生においていつが幸せなら良いのか」等についてもある程度は考えたいと思っている。

「平和の先」
現実で使われる「男女平等」という言葉は、少し正確ではないと考えている。「暮らしやすさの追求」ではないか、と。男女平等と言いつつ、男女で異なることを推進しているために文句がつく。また、実際の内容から考えてもこちらの方が合っていると思う。
ある程度の平等感は満足感(社会へのヘイトの少なさ)に繋がり、実際に民衆も求めていると思うが、その先に本当に求めているのは「暮らしやすさ」だと考える。その過程に「ある程度の平等」がある。「平等」を謳いつつ、それとは少し異なる「暮らしやすさ」を実現しようとしているために、不満が出るのではないかと考える。
「暮らしやすさの追求です」と言って実行したとしても、不公平だと文句は出るかもしれないが。
※以上の内容は、性別に関する諸問題それ自体の是非を語っているわけではない。

上記の内容を含む、平和になってから、または、平和であるがゆえに広まった考えについても、あれこれと候補を出し、どういう要素がそれを促進したのか考察したい。また、それを踏まえて、「これからの社会でどういった主義が出てくるのか」や「社会としてどういった方向に進んでいくのか」についても考えたい。

「自分の消失」
自分とは領域である。ほとんどの人は、自分と他者とを隔絶する何たるかの境界が存在すると考えているだろう。
そもそも、「自分とは何か」という問いについて考えると、私は「そんなものは存在しない」と答える。無理やり、自分という境界を定義することは可能であるにしても、それはただの後付けである。自分という認識は、思い込みであると考えている。
自分の消失とは、その事実があらわになるということである。
今からどのくらい先になるかはわからないが、他者の考えや感覚、見えているものや思いなどが文字通り共有されるとき、「自分」という境界は消滅する。
このとき、「自分」という存在は、新たな体験を作り出す装置として、また、過去の誰かの体験を復元する装置としての役割しか持たない。つまり、自分が固有の存在ではなくなり、他者との違いがなくなるということである。そして、自分という存在が単なる本能的な思い込みであったことにその現実を通して気づくことになる。
一方、このような未来が来なかったとしても「自分」という存在を否定する根拠を提示できればと考えている。

「権利」
これについては、現在ほとんど書き終わっているので出来次第出そうと考えている。権利の存在を否定する方法と肯定する方法に分けようと思っているが、後者がまだだ。

「戦争の否定と現代の肯定」
単純に、戦争を否定して現代を肯定することは可能かという問いである。戦争と現代の結びつきを強く意識しすぎている感じはあり、そういった点が指摘できれば、戦争を否定して現代を肯定することができるのではと考えている。
また、戦争を否定する具体的な理由や、戦争と密接に関係する、文化の重要性についても考えたいと思っている。

最近思ったこと

神について
私が神という存在を認めるにはまだ思考が足りていないなあと思う。わからないことを押し付ける箱として神を認めるのではなく、現実に即して考えていければと思う。

不祥事について
数年に1度以上の頻度で、優秀そうな人が不祥事を起こし、それに対して「当然辞任だ派」と「優秀だから目をつぶれ派」が出てくる。これは、一事例に限った損得の話と、「優秀な人の不祥事は黙認する」という風潮が社会全体で広まった場合の話で分けて考える必要があるだろうと思った。

宗教批判について
宗教を信仰する者に対して批判する者はそこそこいるが、その者が現実について深く考えていない場合は多々ある。世界がどうなっているのかを考えているという点では、宗教を信仰している者の方がよく考えているといえるかもしれない。
私は、信じる過程における姿勢を大事にしたい。

まとめ

今回は、私のあれこれについての考えを大まかに紹介した。以上の内容が実際に出来上がるのがいつかはわからないが、気長にお待ちいただければと思う。
否定されることで視野が広がると考えているため、積極的に批判していただければと思う(鞭3飴7くらい)。

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