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真理とは

 真理とはなんだろうか。誰もが一度は考えたことがあるだろう。しかし、皆「そんなもの考えてもわからない。宇宙の外側と同じだ」と、すぐに考えることを止めてしまう。そこで、この問いを正面から大真面目に考えてみた。

真理を知ることは可能か?

 結論から述べると、この世の真理を知ることは不可能である。
「なんだ企画倒れじゃないか」と思うかもしれない。
 しかし、その理由を深堀すれば、おもしろいことが分かった。
 真理を知ることが不可能な理由は、真理というものの性質に起因し「真理を知る」ことの中に矛盾が含まれているからだ。

 はじめに「真理とは何か?」を考え、次のように定義した。
「人間の立場をも脱した究極的な客観性の中に成り立つ事象」のこと。何にも頼らず、認識されずとも、絶対的にそのものとして存在する何かであり、またそれらの総称である。
 そして、それを「知る」とは、必然的に「人間の立場から知る」ということになる。ここに矛盾が生じる。「真理を知る」とは、「人間の立場から脱したにもかかわらず、人間の立場で知る」ことになるからだ。
 この矛盾は、より具体的に「人間の認識能力の限界」と、真理を知るという「行動自体の矛盾」の2つに分けられる。

1つ目の矛盾

 人間の立場からあるものを認識するとき、そこには必ず限界がある。人間の機能において、直接認識することに限界があることは、電波などからもわかるとおりである。
 また、数式や文字で人間の限界を超える範囲を補うとしても、やはり限界がある。それは、科学(法則を突きとるもの)が経験から来ており、どこまでかを是と仮定しなければ成り立たないものであるから、完全に真だということが不可能であることもそうである。また、経験(観測)しえない領域(宇宙の外やブラックホールの中)や我々に観測しえないパラメータの存在可能性など理由を挙げればきりがない。
 つまり、広義の認識(人間の持つ技術をすべて尽くしたうえでの認識)においても限界があるのである。
 そして、真理とはその限界では補えない領域にあるものも含めた何かである。加えて、知ったことが真理のすべてであると断言することは不可能である。
 言い換えれば、真理を部分的に知ることができたとしても、すべてを知ることは不可能であり、それが真理だと断定することも不可能だということである。

2つ目の矛盾

 そもそも、究極的に客観的な立場とは何か。それは、生物視点ですらない、そしてもう視点ですらない何かである。
 ここで矛盾があることに気づく。それは「客観的」と「立場」は、相容れないということである。究極的な客観性を求めると、立場ですらなくなるのである。そして、立場ではないということは、如何なるベクトルも存在しないということである。わかりやすいように言い換えれば、思考の向きが存在しないのである。
 それはつまり、出発した地点から一歩も踏み出さないということであり、そもそも究極的に客観的なもの(立場)が真理それ自体であるということである。
「真理は知るものではない」ということである。

書いた感想

 これを考えたのは数か月前だが、今読み直すと穴も多いように思う。当時は「これだ!」と思ったが。以下、読み直して気づいたことや、新たに疑問に思ったことを挙げてみた。

  1. 真理の定義について、それが正しいのか十分な吟味をしていない。
    真理の定義はそれで過不足ないのか。別の定義の仕方はないのか。

  2. 仮に1つの数式が世界を作っているとして、それを知れば真理を知ったことになるのか?
    何を知れば真理を知ったことになるのか。真理を体験して知ることは不可能でも、表面上は知ることができるかもしれない。

  3. 真理が如何なるベクトルも持たないとするならば、我々は何をどうやって認識しているのか?
    当時、私は真理について、暗闇の中に浮かぶ真っ黒な鉄球のように考えていた。それ自体で完結していて触れられないものである。しかし、その逆で、純白でハリセンボンのように四方八方に飛び出しているのではないかと考えることもできる。「真理はあらゆる方向に延びていて、我々はその一部を認識している。もしくは、歪んだ真理を認識している。認識したものはすべて真理の一部である。『認識したこと』自体は真理である」。様々なアイデアが思い浮かぶ。

 いずれにしても、発生源としての「真理」と、認識したという「真理」これらをどう繋げるかが問題である。

 真理がゲシュタルト崩壊してきた。

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