美術を鑑賞する作法 「美術史は、ツールだ」
先日、以下のnoteを書いた。
上記のnoteで取り上げた『自分だけの答え」が見つかる 13歳からのアート思考 』(2020年、ダイヤモンド社)の著者である末永幸歩氏は、美術史が我々に提供する知識(の一部)である「背景知識」について同書で次のように述べている。以下同書より引用する。
アート思考の本質は、たくさんの作品に触れたり、その背景知識を得たりして、「教養」を身につけることにはありません。
上記の著者の説明から「作品の背景知識を得る=美術史を学ぶ」と読み取るならば、「美術史を学ぶ=教養を身につける」ということのようだ。
いろいろな考えがあるだろうが、私個人は、美術史の知識を「教養」とは、思っていない。ビジネスマンあるいはウーマンにとっても、必須の知識ではない(と個人的に思う)。
私にとって、美術史は、ツールだ。
使いたくない人は、使わなくても、人生困らない。美術を鑑賞する方法は、自由だ。作品と鑑賞者の関係は、1対1であること、そして、その関係は、どんな時でも変わりない。その関係に知識は、必須ではない。ただ、ただ、その作品を見たいと思えば、見ればいいし、見たくなければ、その場を立ち去ればいい。
そして、本来の(美術が含まれる様々な)「アート」の定義は、いろいろあると思うけれども、私個人が考えるアートの定義のひとつは、「見えないものを可視化したモノ」と考えている。
そのアートには、映画もマンガも含まれる(文字や音符でイメージを可視化したと考えれば、音楽や文学も含まれるかもしれない)。もちろん、ファッションもそうだ。
私は、ボッティチェッリの絵画《プリマベーラ》も新海誠監督のアニメ『君の名は。』も美しいと思う。どちらもアーティスト(全てのアートの創造者をそう呼ぶ)の頭の中にあったイメージを可視化したモノだ。
写真もアートとして扱うか賛否両論あるけれども、私にとっては、立派なアートだし、個人的にアンセル・アダムスが好きだ。彼の写真は「現実以上の何かが可視化」されていると思う。
そして、美術史は、可視化されたアートを見るための「ツールのひとつ」であり、あるいは、そのツールを使いこなすこと、すなわち作法を学ぶ学問も美術史だと思っている。
例えば、ファッションの世界で、エディ・スリマンは、エコール・ド・ルーヴルで美術史を学んでからテーラーへ進んだし(*1)、ヴィクトリア・ベッカムは、オールドマスター達の作品を熱心に学ぼうとしていた(*2)。彼らが(間接的でも)、自らが創造するファッションに美術史をツールとして使おうとしているように、私にはみえる。
ただし、美術史は、問題のある学問だ。
美術史=ツールに問題点があるのであれば、「使用上の注意」を知っておいたほうが良いと思う。あるいは、知らないよりも知っていた方がよいくらいでお読みいただければ幸いだ。
とうわけで、この問題点を少しずつ話していきたいと思う。
続きは、また。
註:
*1. “Hedi Slimane: Berlin, March 11 – May 31, 2004”. MoMA PS1, New York. https://www.moma.org/calendar/exhibitions/4805 エディ・スリマンは、セリーヌのデザイナー。最新記事は、こちら。
*2. “Victoria Beckham's Old Masters Obsession Continues With An Exhibition Of Female Trailblazers” British Vogue(06 Dec 2018)
https://www.vogue.co.uk/article/victoria-beckham-on-female-old-masters-art ヴィクトリアは、元スパイスガールズのメンバー。夫は、デヴィッド・ベッカム。