「らしくない」作品に注目する理由
美術館や展覧会へ行くとき、あまり目玉作品に力を入れてみることはない。
天邪鬼だからかもしれない。でも、アーティストの「らしくない」作品を見つけることの方が面白いと思っている。
なぜなら、「らしくない」作品ほど、そのアーティストの本質がわかる気がするから。
先日、シカゴ美術研究所所蔵のフィンセント・ファン・ゴッホの《泣く女》(1883)を紹介した。まだ、パリもアルルの生活も経験していない、ゴッホがオランダで描いた初期の作品だ。
まず、ゴッホらしくない。これでもかと絵具を盛った感もない。うねるような流れもない。まぶしい黄色も使われていない。一般的に「ゴッホだ!」という作品ではない。
最近、noteで流行の「PVを狙った戦略的な記事」の内容に反する作品だろうなと思う。
クロード・モネのように美しい作品でもない。ルーヴルでもオルセーでもない。
(印象派の良質の作品が米国に多く存在する理由は、いろいろあるけれども)あえて、シカゴで、しかも、ゴッホの《泣く女》を紹介することに、勝手ながら意義を感じている。
多分、みなさんが、今までみたことのない意外なゴッホに会えるから。
そして、知られていないゴッホの作品に、彼の本当の実力をみることが出来るような気がするから。
ゴッホのアーティストとしての生涯について、いろいろな形容詞を付けることは、自由だけれども、私は、彼の最後の5年間だけの作品だけで、彼を語るのは、スキじゃない。
「らしい」作品は、メディアやらで嫌というほど流れてくる。
だから、「らしくない」作品に何かが隠されているのではないかと思っている。ゴッホの《泣く女》のように。