令和元年九月九日

    今日は自分の誕生日だ。改めて誕生日とは嫌なものだと痛感する。自分は本より、気の合う少数の友人と付き合うのが好きだ。友人は数えられるほどしかいないため、誕生日のお祝いなど無縁である。それだから誕生日は嫌いだ。そんな生半可な理由ではない。年を取るということは大人への一歩なのである。人はやがて大人になる。これは紛れもない事実だ。法律上、二十歳で成人であるが、精神面では二十歳から大人なのかと問われたら、そうではないだろう。その点、精神面では、規定された子供と大人の境界線は全く存在しない。
 そもそも大人とは、どのような人を指すのだろう。社会に対する怒りが無くなったときに、大人になるのだろうか。怒りを自分自身で沈められるときに、大人になるのだろうか。それとも、社会にとって自分は取るに足りない存在、という諦めからくるものなのだろうか。ヒトはたびたび、怒り狂う自分に対して「大人になりなさい。」という言葉を吐く。自分はこの言葉が大嫌いだ。自分に言わせてみれば大人なんて個人の主観だろう。自分が何に対して怒り狂っているのか、自分の内面などをわかるはずがない。子供最大の武器わがまま、まさに”未熟な怒り“である。だが大人は知っている、この怒りを。ヒトはみなこの”未熟な怒り“を経験し、通過儀礼として、大人になるのではないか。このわがままが消えたと気づいたとき、晴れてヒトは大人になる。つまり怒りという感情をコントロールできない、わがままなヤツは、この場を借りて言わせてほしい、”大人ではない“と。そのように考えれば腑に落ちる、”大人“とい概念について。
そんなことを考えつつも、世間に対する怒りを抑えきれない“未熟”な十九歳の誕生日である。