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東京五輪1500m金メダリストのヤコブ・インゲブリクトセンが実践するノルウェー式二重閾値走のトレーニングシステム

東京五輪男子1500m / オレゴン世界選手権5000m金メダリストのヤコブ・インゲブリクトセンは、2023年6月のダイヤモンドリーグパリ大会の男子2マイルで圧倒的な走りを見せ、7:54.10の世界最高記録をマークした。

男子2マイルの7:54.10は世界陸連のスコアリングテーブルに照らし合わせると他の中長距離種目で以下のパフォーマンスに相当する。

1500m 3:25.90
3000m 7:19.99
5000m 12:34.86
10,000m 26:12.47
3000mSC 7:50.32

1500, 3000, 5000, 3000mSCは現世界記録よりも良いスコアであり、この2マイル 7:54.10がいかに素晴らしい記録であるかがうかがえる。

ヤコブはレース後、陸上メディア“CITIUS MAG”の記者(サブ4マイラー)David McCarthyからのインタビューの際に、トレーニングについての質問で以下のように話した。

「多くの人が陥る大きな間違いの1つは、トレーニングでハードに追い込みすぎること。それは、基本的にメンタリティが原因で自信が無いから」
"One of the biggest mistakes a lot of people do is they go too hard in training, and that's basically because of their mentality. They don't believe in themselves."

Twitter:Cathal Dennehy

確かに、1人であってもグループであってもトレーニングの最後に追い込んで自分を試したくなることはあるだろうし、設定ペースや本数をこなせない(=その時点でハードに追い込みすぎている)ということはどのランナーも体験することだろう。

「良い練習は良いレースに比べれば何でもない。競技中に速く走ることこそが重要」
"A good session is nothing compared to a good race, Running fast in competition is the number that matters."

Twitter:Cathal Dennehy

以下のヤコブ(ノルウェー式)のダブルスレッショルド(以下、二重閾値走)のトレーニングは、レースのパフォーマンスが予測できうるレースペース付近のトレーニングをほとんど行わず、一貫性を持って高ボリュームの低中強度練習を数年単位で継続していくトレーニングシステムである。


「ノルウェー式二重閾値走」の普及

現在は医師としてノルウェーに暮らしているマリウス・バッケンは、2001年 / 2005年世界選手権の男子5000mで決勝に進出し、2004年には13:06.39の当時のノルウェー記録を樹立した人物である。

彼は1996-1998年にピーター・コー(セブ・コーの父親)の指導を受けていたが、1998年からノルウェー陸連がトップ選手のモニタリングを開始。当時はリディアードシステムから、ピーター・コーのトレーニングまで様々だったが、中強度練習の比率が高い閾値モデルのトレーニングの導入には賛否両論があった。否定的な意見の中には、レースでのパフォーマンスは「レースペースでのトレーニングが必要である」というものであり「閾値走では十分なトレーニング刺激が与えられない」というものだった。

当時はこの閾値モデルのプロセスを最適化しようとする人はほとんどいなかったが、バッケンは当時、以下の3つの閾値モデルを試みた。

① 1週間ほぼ全てが閾値付近での練習(トップアップマイレージウィーク)
② 1回の閾値走の量を増やし(長距離テンポ走)それを週に2-3回行う
③ 1日に複数回、少量の閾値走を週に隔日で行い、翌日をジョグにする

バッケンは③のモデルが良い効果を得られることを実感し、その後、週2回の二重閾値走のモデルを構築。この中強度以下の有酸素系トレーニングを基本とした高ボリュームのトレーニングシステムは、頻繁に高強度練習を行うようなトレーニングと比較してより少ない脚への負担で、より多くの量がこなせるということが重要な点である。

バッケンはこの「ノルウェー式二重閾値走のトレーニング」をまとめたブログ記事を2022年1月に自身のホームページで公開した。

http://www.mariusbakken.com/the-norwegian-model.html

「科学的な論文ではなく、自身の経験的な観点からの考察である」と文中に綴っているが、彼が提唱する二重閾値走のトレーニングは以下である。

・乳酸性閾値(LT2、OBLA)付近の強度のトレーニングに重点を置く
・朝夕の閾値走を週2回(計4回)+坂ダッシュとジョグを含め週180km程度
(閾値走はショート / ロングインターバルを交互に行い強度変化をつける)
・閾値走は基本的に持久走ではなく、インターバル走として分割して行う
・冬季と夏季に高地練習を実施して乳酸測定器を使っての集中練習を行う
・閾値走は、乳酸性閾値の強度を上限にしてそれよりも低い強度で行う

出典:http://www.mariusbakken.com/the-norwegian-model.htm

このトレーニングシステムは、ヤコブの兄弟や東京五輪男子トライアスロン金メダリストのクリスティアン・ブルンメンフェルトといったノルウェー勢だけでなく、北欧や欧州の中長距離選手たちの間で既に定番となっている。

そして、バッケンがオンライン上で公開したこともあって、2022年後半のシーズンオフ明けから北米拠点の中長距離選手が取り入れるなど、すでに世界ではトレンドのトレーニングとなっている(おそらく日本を除いては)。

現在の男子5000m世界トップレベルのグループを率いるマイク・スミス(北アリゾナ大学ヘッドコーチ)が最たる例である。彼のトレーニンググループに所属するオレゴン世界選手権4位のルイス・グリハルバ、同11位のアブディハミド・ヌア、今年に2回12分台をマークしているウッディ・キンケイドらのトレーニングでは、二重閾値走を2022年秋から冬にかけて実施したことが話題になった(このトレーニンググループについては後に詳しく触れる)。

現在二重閾値走のトレーニングを行っているヤコブとグリハルバ ©︎2022 Sushiman


乳酸性閾値の「スイートスポット」を探す

一般的に閾値走といえば、血中乳酸値が急激に上昇し始める4mmol/LのLT2(OBLA)の強度付近でのランニングであるが、そもそも血中乳酸値を測定できるランナーというのは、全体の0.1%(1,000人に1人)にも満たないだろう。したがって、ほとんどのランナーが自身の感覚や経験によって閾値と呼ばれる強度をその時々で判断しており、VDOTのTペースの指標を参考にしている人も多いはずだ(走行時の心拍数という指標を見るのも良いが)。

OBLA(4mmol/L)付近の強度は45-60分間維持できる強度と言われており、男子エリートランナーなら10マイル(16km)からハーフのレースペース、それ以外のランナーなら10kmから10マイルのレースペース付近と考えることもできるが、その範囲がやや広い。

この4mmol/Lという数値は、エリートランナーの閾値を示しておらず、一般的に非エリートランナーの数値が用いられていることを考慮すべきである。そして、ヤコブといったようなトップクラスのエリートランナーの乳酸性閾値は4mmol/Lよりも低いと言われている。

科学ジャーナリストのアレックス・ハッチンソンが執筆した以下の記事では、閾値付近の強度についてこのように記載している。

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