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心がハダカになりたいなれない

2020年明けて初めてnoteを書きます。新年の抱負をとってつけたように1月1日に発表する儀式が嫌いで、そのとおりに一年を過ごせたこともありません。短めのスパンで目標を立てて過ごすくらいが私にとってちょうどよいので、短期スパンの目標を書くのと、近況をアップデートするnoteにします。

2020年春までの目標

・自分のことがよくわかるようになる。〈日記の再開〉
・メリハリきっちり分ける〈だらける時間とちゃんとやる時間〉
・金言フォルダの作成、運用〈notionの活用〉

・自分のことがよくわかるようになる。〈日記の再開〉

年が明けて、自分の過去から現在から、人とのかかわり方や考え方まで、人に説明して相談することがぐっと増えました。そのとき、やっぱりうまく話せなかった。同時に、昔から自分のことが一番わからなかったことに改めて気づきました。人に相談事を持ち込まれることは昔から割とあるほうで、それに対して「なにを言ったら響くかな」ということを考えながら相談事の球を打ち返しまくった時期も、一応あるにはありました。でも自分の悩みとか自分の過去のトラウマとかに関しては全くわからず、痛みを伴わないと学ばない、むしろ痛みを伴っても気づかないということに、見て見ぬふりをしてきたここ数年でした。ので、定期的に言語化して見つめなおす機会をつくるため、日記をこまめにつけるようにします。

春までに解決はきっと難しいけれど、自分のことがもっと解像度高く見えたほうが、長期的に考えて自分の幸せにつながることは確信しています。

・メリハリきっちり分ける〈だらける時間とちゃんとやる時間〉

先日のnoteでも書いたように、勉強する生活をしています。

でも、いつも勉強していると体力が持たないし、仕事も息詰まるので、ちょうどよく遊ぼうと思っています。最近はちょっと遊びすぎですが、今後数年は勉強し続けることを念頭に置くと、うまくメリハリつけて持続的な生活を作り、健康的な受験生生活を送っていくほうが今の自分も未来の自分も喜ぶはずです。具体的になにをするか、あんまり考えられていませんが。

・金言フォルダの作成、運用〈notionの活用〉

昨年から、会社の先輩やまわりの大人たち、友人たちが口に出す言葉のなかに、キラっと光る金言を見つけ始めました。四六時中友人と話したりしていた学生時代じゃなくなって、きっと会話の濃度が濃くなったんだと思います。金言をそのまま放っておくことが大変もったいないので、金言フォルダと称して、蓄積していこうと思っています。オンラインコミュニケーションの金言、会話してての金言、たまたま見つけたコピーとか、あらゆるところに金言は転がっています。ストレスなく溜められて、アクセスがいいのは、スクショかメモか、手帳に手書きするか、、決めかねていますが、いまのところ、まだ使いこなせていないnotionに貯めるのがよいかなあと考え始めています。

心が服を着ていることに気づいた

この感覚、まだ分析しきれていないし、自分でもなにを言っているかわからないので、ふわっとしています。また別noteで詳しく書いたほうがいいかもしれません。近況アップデートとして、書いてみます。

お仕事して、お友達と話して、勉強する生活を送る合間に、SNSで知り合いの動向を見てしまう。で、人と関わるなかで「傷つけるな」「違和感あるだろうな」と思いながらコミュニケーションをとったり、後からそれに気づいて一人で後悔したり、そんな生活をしているわけです。土日の片方は一日勉強して、片方は人と会ったり買い物したりしています。珍しく今週は、土日ともに予定が入っていて、勉強全然できない土日でした。

今日、一個用事を終えて、買い物をしているとき、気づいたら自分がしかめっ面で歩いていることに気づきました。しかめっ面で一人で歩いて、ピンとくる商品を探しているとき、たぶん心がむき出しのハダカだったと思うのです。ハダカというのは、自分が誰かを傷つけ、傷つけられることのない、武装していない状態。人と関わると、私の言動ひとつでだれかを左右してしまうから、どんなに気の合う友人といても、それは気が合ってどんなに楽しくても、透明な服を着ていると思うのです。自己開示が好きなので、気持ちや考えはどんどんさらけ出すし、ゲラゲラ笑って楽しいけれど、たぶん服を着ている。自分がグサッと刺されないように、防護のため。

困ったときに相談できて、電話ができて、会える友達は多くはないものの存在します。でも、特定の一人や二人と、ズブズブに深い関係の友人というのは、いたことがない。どうやら一般には、そういう深い関係の友人だったり恋人だったり、家族かもしれないけど、そういう関係の人が一人や二人はいるようですが、私はいないようです。どの関係性にも。もしかしたら多くの人々は、そういう人といるときに、ハダカになれる時間を担保しているのかもしれません。

服を着ていることに気づいたということは、ハダカになる状態にも気づいたということで、それと同時に、今、ハダカになりたいと思っていることに気づきました。

用事を済まし、一人で買い物していた今日も確かにハダカだったし、私はよく一人でハダカでいます。娯楽も基本なんでも一人でできる。でも、だれかといるときにハダカでいる状態になりたい、なってみたい。

たぶん、だれかといるときに心がハダカになる感覚を、知っているのかもしれない。いつかやったのかもしれないけど、いつ、だれといて、どんなふうに自分の心がハダカだったのかは、思い出せません。ただ、それはきっと安寧なんだろうなという予測がついているのです。

服を着ていても、別に困りはしないし、ハダカになることに急を要するわけでもないし、むしろ今日ハダカだったのですが、友人でも家族でも、恋人でもなんでもいいので、誰かといるときにハダカになるという、一つの安寧をいま、渇望に近く、得たいと思っている、今日このごろです。

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