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3年間のワーホリでいちばんきつかったこと

このnoteを書いている今月、9月18日にわたしの3年に渡るワーホリ生活は終了する。

3年間のワーホリ生活を振り返って、いい意味でも、悪い意味でも、思い出に残っている出来事がいくつかあるので、そのことについて書きたいと思う。

オーストラリアワーホリについて調べると

  • SIMカードはこれを使うといいよ!

  • シェアハウスの探し方

  • ファームジョブで注意すること

など、"how to" をシェアするサイトやブログは多いけど、「個人の体験」にもっとフォーカスを当てたものがあってもいいんじゃないかな、と思ったので、わたしの体験談を書いていこうと思う。


ワーホリで精神的にいちばんきつかった時の話


オーペアの仕事は渡航前にすでに見つけてあった。

アメリカでの専攻が「幼児教育」で、日本でも子ども英会話講師をしていたこともあり、「英語で子どもに関わる仕事がしたい」と漠然と思っていた。

オーペアについて知ったのはワーホリする半年くらい前で、家賃や食費も払わなくていいしワーホリ資金がそこまで多くなかったわたし的にはぴったりな仕事だと思った。

そんなこんなでトントンと仕事が決まり、オーストラリアに渡航した。

仕事がスタートする前の1週間をパースで観光して過ごした。

パースといえばで有名のピナクルズまで車で確か2時間くらいかけていったのに、ついて10分で景色に飽きてしまった(笑)もしピナクルズに行こうと思っている人は、朝日または夕日の時間帯に行くとベストだと思う。

その後すぐにパースから飛行機で2時間弱の人口2500人の町でオーペア生活が始まった。オーペアについて詳しく知りたい人はググるか、わたしのインスタの過去の投稿を見てほしい。

これが、思い返してもワーホリ時代で一番しんどい仕事と言える。

4歳と8歳の男の子の兄弟を見ていたんだけど、まあ活発で元気で、騒がしくて、生意気だった。

今でも覚えているのが、アイスクリームを買ってほしいとねだられ、2人で1つをシェアするようにいうと、

「僕たちは違うバイキンを持っているから、シェアはできない!」

とお兄ちゃんに言われたことである。

なんとも生意気キッズだった。

でもその理由はすぐわかった。親が子供をものすごく甘やかす。

お金持ちな家だったから(ビーチまで徒歩2分)、親が子供になんでも欲しいものを買い与えているように見えた。(わたしなんかなんでも姉妹と3人でシェアだったのに)

家には、ジャグジー、2台の釣り用ボート、3台のカヤック、2台の車。

日本の普通のサラリーマン、共働きの家庭で生まれ育ったわたしからすると、カルチャーショックだった。

子どもたちはいつもガソリンスタンドでアイスクリームを一人1つ買ってもらってたし、自転車が少し古くなっただけで新品のものを買い与えられていた。

そんな子どもたちとの6ヶ月は、たくさんのドラマ、ドラマでここには書ききれない。

でもわたし的に一番しんどかったのは、子どもたちのお母さんとの関係だった。

まあ、相性が全然良くなくて大変だった。わたし自身、自分をよく見せようと偽っていたし、向こうも最後の最後まで仮面が外れていなかったと思う。

お互い、本音でなかなかぶつかることができなかった。

さらに、精神的にしんどいと思った理由の一つに、オーペアという仕事上、仕事と自分のプライベートの境界線がすごく難しいというところがある。

休めるはずの家で休んでいても、急に「スーパーに行きたいから、子どもを30分だけ見ていてほしい」と頼まれることはしょっちゅうだった。

完全なオフというものは、家から出かけないと保証されていなくて、ついつい気を遣ってしまうわたしは自分の休みなのに、

「今日ももしかしたらお母さんに子どもを見るように頼まれるかも」

と思って、家にいるようにしたり。

色々精神的に「しんどい」が積み重なって、ある日爆発した。

子どもの寝る時間のことでお母さんと軽い言い合いになり、責められたわたしはパニック発作を起こし過呼吸になった。

あの時、「もう日本に帰ろう」と決めた

しかもまあタイミングが悪すぎた。

コロナになって、ロックダウン。学校に行っていた子どもたちは、学校に行けず、家にいるので24時間ずっーと一緒だった。

考えてみてほしい、自分の子どもと24時間一緒でもしんどいのに、他人の子供となると地獄だった。

ロックダウンだからもちろん必要以外の外出は控えないといけないし、趣味だったジムも閉鎖。息抜きは家から歩いてすぐのビーチで音楽を聴きながらぼーっとするくらい。

付き合って2週間しか経ってなかった今のパートナーとは、social distanceと言って、会っても2メートルの距離を保ちながら話したりしてた。(そしてこれをわたし達は1ヶ月も守ったのである)

次のセカンドの仕事が決まっていたのに、コロナのせいでその仕事は白紙になるし、他の地域に移動しようも、どこも州境を閉鎖していて動こうにも動けなかった。

何もしてないのに、勝手に涙が流れてきて、夜もあまり眠れない日が続いた。

そんな悪いものが全て重なったタイミングでの、パニック発作で、このままあの家にいることが自分の精神面にいい影響があるとは思えなかった。

すぐに日本のフライトを予約して、2週間後に帰国する予定だった。

パートナーにも泣く泣く伝えて、

「わたしの精神面のケアが一番大切だから」

と理解してくれていた。

わたしの中では、「帰りたい気持ち」と「帰りたくない気持ち」が毎日代わる代わる押し寄せて、今まで決断するのにこんなに迷ったことはなかった。


帰国する日が近づく中、町で仲良くしてもらっていた日本人の方に

「work for accommodationを募集しているところがあるよ」

と教えてもらった。

簡単にいうと、1日数時間のボランティアワークをする代わりに、家賃はタダで部屋を使わせてくれる、というもの。

わたしはすぐにその家の夫婦に会いに行き、事情を説明。とってもいい人だったので、「いつでも来ていいよ」と言ってもらえた。

その時に

「やっぱりわたしはまだワーホリを終えたくない」

と強く思った。

仕事がなくても、家賃を払わなくていいのであれば、切り詰めれば今ある貯金で数ヶ月は生活できるはず。

と、オーストラリアに残れる選択肢が1つできたことでわたしはここで

「オーストラリアに残る」

という決断をした。

日本の家族や友だちには「帰国やめた!」と連絡し、お土産と別れの手紙までくれていた彼には「ごめん!やっぱり残る!」と報告。

1週間後に控えたフライトもキャンセルした。

我ながらこの決断は思いきったな、と思う。


いつも大きな決断をするときに、自分にこう問いかける。

「わたしは今この決断をして、死ぬ前に後悔しないか」

この考え方のおかげで、わたしは願書提出ギリギリで志望校を英語を専門にした高校に変え、高校卒業してすぐアメリカ短大留学を果たし、そしてオーストラリアワーホリもできた。


これをひたすら自問し続けた時に、

「ワーホリをここで終えること」
「彼と離れること」

に自分の心が「死ぬ前に後悔する」と言っていた。


そして今、あの時の自分の決断に心の底から感謝している。

結局オーストラリアは2年間、国境を封鎖していたから、あの時に帰国していたら、わたしはあんなに逃亡したかった日本で嫌々生活していただろうし、彼とも2年間遠距離をするはめになっていた。

もしもあの時・・・なんてそんな「もしも」は誰にも分からないけれど、(日本で彼よりもいい人に出会ってたかもしれないし)わたしはあの時、オーストラリアに残る決断をして本当によかったと思う。


これからオーストラリアにくるみなさんには、いいことも、悪いことも、楽しいことも、辛いことも、全部とにかくたくさん経験してほしいと思う。

そこから学べることがたくさんあるし、その経験が自分自身を大きく人として成長させてくれる。(わたしはそう信じてる)

こんな感じでわたしの経験談についてこのnoteではシェアさせてもらいました。このnoteがよかったなって思った方はぜひ「いいね」を押していただけると、嬉しいです。(継続するモチベになります)


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