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『100日間生きたワニ』は102点の映画だった件

今でも忘れることはない。2011年、日本がゼリーのように揺れたあの日からちょうど一ヶ月後の4月の11日だった。

クラスメイトが死んだ。死因がなんだったのかは分からないし、彼の死をクラスメイトに伝えた教師も、特段のその件に関しては何も触れなかった。「お亡くなりになりました」とただその一言で、その話はおしまいになった。

「若い」とは「死」と言うものから距離をおいた状態を指す形容詞ではないかと思うのである。人が「若い」ということに憧れるのは、「死」という「終わり」を忘れさせてくれる時間的・空間的な距離が若さにはあるからだ。
時間的に死へと歩み続けている“オヤジ”が、若い女に期待するのは、本質的にはその「外見的美しさ」そのものにではなく、彼女たちが無意識的に発する「死」というものから絶対的な距離をとった甘い香りなのではないかと、思うのだ。“オヤジ”たちにとって若い女と空間を共にしている間だけ、「死」の足音から自由になれる、と順調に”オヤジ”へと向かっている私は考える。

なんにせよ、本来、死から無縁の高校生(=私)にとって「クラスメイトの死」という「イベント」は良きにしろ悪しきにしろ大きな衝撃を与えた。

ああ、人とは死ぬものなのだ。
それは自分も例外ではない。
ついこの前まで笑っていた人であっても、
容易に死に得るのだ、と。

そう思った。

メメント・モリ。死を忘れるな。

人とは「死」を知ることによって、「生」の喜びを知ることができる。

2011年に起きた、震災とクラスメイトの死と、その二つの出来事によって私は自分が生きているということを知ることができた。この十年という時間で私はそう思うようになった。

映画「100日間生きたワニ」感想

そしてワニである。

映画『100日間を生きたワニ』である。公開初日の金曜日、仕事終わり、TOHOシネマズ上野の18時の回。

来た、見た、負けた。

まあ、初めから期待などはしていなかった。負け戦上等で臨んだのであるが。それでも酷い出来ではあった。
Twitterでは朝から「ひどいひどい」と言われていたし。そもそも私は原作もまともに読んでなかったのであるし。
当たり屋根性丸出しで向かった。

毎月9日はTOHOシネマズのポップコーンとジュースのセットが五百円で買える日なのだ。それはよかった。バターソースのかかったポップコーン、めちゃうま。

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というわけで以下、映画ワニの感想を述べる。

初めに言っておくと世間(≒Twitter)で騒がれているほどの酷さでは決してなかった。これより酷い映画は吐いて捨てるほどある。

例えば、ここ最近の映画で言えば
・『キャッツ』
・『アリー/ スター誕生』(レディ・ガガ版の『スタア誕生』)
などを劇場で寝てしまった身からすれば、本作は途中で寝てしまうようなこともなく観れた。その点では(個人的には)映画ワニの方が映画としては上だと思う。

『キャッツ』等とこの映画の何が違うか。私が思うにそれはおそらく脚本家も原作者もこの作品を「面白い」ものにしようと端から思っていなかったのではないか、という点だ。
『キャッツ』や『スタア誕生』はそれぞれ元となるヒットした作品(舞台とリメイク前映画)がある映画だ。故に「面白い」ものにしてやろうという肩肘張った感じが出ていた。
しかし、『100日間生きたワニ』は原作がそもそもいわゆる鉤括弧付きの「面白い」作品ではない。それを監督も充分に理解していたのではないかと思うのである。面白くしてやろうという意思は一切感じられなかった。

「死へと向かっていくワニ」という話題性のあったコンテンツ。これを「商品化」して「消費」しようという目的に対してこの映画は見事に「低予算」で「無難」に仕上げいていると思う。

減点要素もそんなにない。
後半部分に大きな欠点を抱えているとは思うが、その大きな欠点一つに目を瞑れば真っ当な映画だ。加点要素も特段見当たりはしないが。

私がこの映画に点数をつけるなら102点だ。
「それ、何点満点でよ」
もちろん、10,000満点中の102点である。

以下、致命的なネタバレはしないように心がける。
「ワニは死ぬ」くらいのネタバレは含まれる可能性があるが、そもそもネタバレを気にするような類の映画ではないと個人的には思う。

良かった点①「ネズミを主人公にした点」

これは素直に良かった点だと思う。

全体を通して、この映画は「ネズミ」を主人公にした「破壊と再生」の物語だ。ネズミくんの日常が唐突に壊れ、そしてそれが再生する物語。

原作漫画は違う。
原作は「ワニ」を主人公にした「閉ざされた世界」の私小説的な物語。登場人物数人の閉じた世界でワニの1日1日を淡々と描いた作品だ。

原作をそのまま一時間の映画にするのはあまりにも長すぎるという判断があったのだろう。突飛な展開があるわけでもない青年の繰り返す日々を映画にするのは相当の脚本力と演出力が必要だ。かの『バクマン。』(大場つぐみ・小畑健)の中でも「なんでもない1日を面白く描ける人間こそが最強!!」的なことを登場人物が言っていた(気がする)。

物語は「花見に遅刻するワニをネズミが迎えにいくところ」から始まり、「ネズミとワニの友情物語」を通過して、「破壊されたネズミの日常が希望の見える地点に着地する」という構成をとっている。

ワニの「死」がゴールの原作と違い、映画版はワニの「死」が主人公に変化を促す「きっかけ」になっているのは明らかな良改変だ。なぜならこの映画を観る人の99%はワニが死ぬことを知っているのだがら。

原作は「ワニが本当に死ぬのか」「ワニがどうやって死ぬのか」をドキドキしながら見る楽しみがあった(のだろう)が、映画ではそれができない。原作では一種サスペンス的な楽しみ方でワニの死を待っていたが、映画ではヒューマンドラマの中の一つの装置としてワニの死を扱っている。

言われてるほど悪くなかった点①「作画」

世間(≒Twitter)で言われている程、私は作画に関しては気にならなかった。「作画崩壊」と言われていたが、私の見落としがない限り「作画崩壊」はしてなかった。

絵が歪んでいるように感じる部分はあるかもしれないが、それはそもそもの原作からしての絵柄の問題だ。万人受けするような絵柄ではない。

むしろあの独特の絵柄を考えたら忠実の作画できている方だと思う。

Twitterで書かれている「作画崩壊」という言葉はおそらく元の意味の「作画崩壊」ではなく、単に個人的な絵柄の好みが作品のそれと合わなかっただけではないかと考える。

確かにネズミくんが正面を向いて口を大きく開けて泣き笑うシーンがあるが、あれは気持ち悪かった。

紙芝居に関しても私はそれほど気にならなかった。あの絵柄でヌルヌル動かれても気持ち悪い。「経費削減」と「絵柄との相性」を考えても適切なのではなかったかなと思う。

言われているほど悪くなかった点②「声優」

神木隆之介きゅん、といえば彼の担当した劇場アニメは必ずヒットするという、そういう役者さんであるからして、まあ、それほど悪くはなかったが如何せんセリフ量が少ない。彼の担当しているワニくんは物語の半分で死ぬからそれは仕方ない。

あとはジャイアン声のモグラはもちろん本職声優な訳で普通だったし、ワニ先輩と犬先輩の声はまあ普通だった。

危ういなと思えたのはネズミくんの演技くらいで概ね合格点ではなかろうかと感じた(他の人のレビューでネズミくんの声優を褒めている人が結構な数いるように見受けられるが、正直、本気で言ってる? と思う)。むしろこの点はジブリやその他有象無象のアニメ映画の方が酷いものはたくさんあると思う。

声優に関して酷いと言っている人が多い原因は、声優の力量ではなくてどちらかというとセリフまわしに問題があると思う。

率直に言って、オジサンが考えたような「若者言葉」でキャラクターが喋るのだ。これは明らかにセリフを考えた人間が「若者=馬鹿」と思っているとしか考えられないような馬鹿っぽい台詞回しなのだ。
違和感のあるセリフを日常の場面でキャラクターが喋っているから、声優の演技が悪いのではないかと錯覚しているのだと思う。

上映中、私が違和感をもったセリフをメモに取ったが
・「ハッピーボーイかよ」
・「とりま」
・「マジ〇〇し」
・「これいくね?(良くない?)」

正直、二十歳前後であろうワニくんネズミくんが使うような言葉に思えなかった。今アラサー以上の人たちが学生時代に使ってたような言葉の香りを感じた。

まあ、これに関しては「若者はこういう言葉遣いします!!」という人がいるのならば、大いに異論は受け付ける次第。

言われているほど悪くなかった点③「間」

会話が冗長、という指摘も良く目にした。しかし、これは意図的なことであると断言できるし、必ずしも悪いことではない。

この映画は極端に物事をセリフで説明しない。特にワニの「死」に関しては何も説明しない。誰も明言しない。ネズミも先輩も誰もネズミが死んだことに関してセリフでは何も言わない。自分の心情をセリフで吐露する唯一の例外が後半から登場する「カエル」だけなのである。

それ以外の登場人物は表情や背景などでその心情を観客が推察することしかできない。

これは一定程度、観客側に読解力を求めるやり方であり、「読み取ってやろう」という心持ちで見ないことには変な間を多用する説明のない不親切な作品に感じられてしまうだろう。

これに関しても絵柄が絵柄であるから、一般的な作品と比べて登場人物の心情を読み取るのが難しいというのはわかる。わかるが言われているほど悪いやり方ではなかったと思う。

悪かった点①「ワニくんに感情移入できない」

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ワニくんには一切感情移入できなかった。これに関しては原作を読んでワニに対して愛着を持った人はそうではなかったのかもしれないが、鑑賞時には原作未読だった私にはワニの「死」を悲しむだけの時間をくれなかった。

ワニが死ぬまではおよそ30分ほど。その間、彼は特別何をするわけでもない。愛着を持つだけの理由は何もなかった。

「リアルな若者」といえば聞こえがいいが、ワニくんは私に取っては「嫌なやつ」にしか映らなかった。

彼はフリーター。夢も目標もない。しかし、女に振られればすぐに職場をばっくれて辞める。ろくに練習もせずに「俺、プロゲーマーになるわ」くらいのノリでゲームの大会に出る。実家との関係も悪くないのに実家に帰るという選択肢もなく、無職で仕事も探さずにブラブラする。初デートで事前に水族館の閉館日も調べない。溢れでる童貞ムーブ。台詞回しがウザイ。6時のマネって何?

キャラクターとしては括弧付きの「リアルな若者」以上の個性がない。

これはワニくんだけではない。
ネズミは変なノリの痛いセリフを発するバイク乗りだし、ワニ先輩は「ワニくんが恋する女」という役割を当てられただけのハリボテだ。無個性。好きになれない。

無個性な彼らの中身のない30分間を見せられても、「ワニの死」あるいは「友人(恋人)の喪失」というイベントを悲しむことはできない。

これに関してはいっそ、『桐島、部活やめるってよ』のように冒頭からワニなんて登場させなかった方がいいのではないかと思う。
感情移入できないワニの生活を30分描くくらいなら、その時間を使ってネズミを深掘りしたほうが彼の抱えた「喪失感」を視聴者に訴えかけることができたのではないかと思う。

『ターミネータ2』で溶鉱炉に沈んでいくT-800を観て泣けるのは主人公のジョンコナーが亡き父親の姿を彼に重ねていく姿を私たちも追ってきたからだ。

『レオン』でスタンスフィールドと共に爆死するレオンが泣けるのは、彼とマチルダの不器用な愛情のやりとりを見ているからだ。

『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦』で青空侍の死に感動するのも、そう。

「死」そのもので泣かせようとするのならば、我々に彼の死を泣かせてくれるだけの準備が必要だ。ネズミとの友情をもっと丁寧に書く必要があったのではないか、あるいは彼が死んだことはもう終わったこととして物語をはじめた方が良かったのではないかと、思う。

悪かった点②「ワニの死が唐突」

彼の死に物語上の意味が何もない。
死なせたいから死なせた以上の意味がない。

これは原作漫画ならいい。原作は「ワニが生きて、そして死ぬ」という物語なのだから死ぬこと自体に「物語を終わらせる」という意味がある。観客全員がワニが死ぬことを前提に物語に触れているからこれはいい。ホラー映画で最後主人公が殺されて終わるのと同じだ。

しかし、この映画の主人公はネズミだ。中心軌道はあくまで「ワニを失ったネズミが成長する物語」であるはずだ。ワニの死が物語上の「きっかけ」にならなくてはならない。

それは『タッチ』で上杉和也の死が兄・達也の物語に大きな影響を与えたように。「和也が南へ本気でプロポーズ」「和也が南の気持ちが達也にあることを察する」「南の涙」「達也が弟に負けないように努力することを宣言」「和也の俺負けないよ」
このような積み重ねがあって初めて和也の死は、主人公達也の物語に「成長するきっかけ」という役割を与えられる。
和也の死も、「誰かを助けて交通事故に遭う」という点では、ワニの死と同じだ。その淡々とした描き方も似ている。

しかし、大きく違うのが和也の「死」で物語が大きく転換していくのとは違い、ワニの「死」は主人公の成長には直接的には影響しない。この物語で主人公の成長の「きっかけ」を与えるのはワニではなくカエルなのだ。

リアルといえばそれまでだし、物語上の「死」を劇的にする必要性が必ずしもあるわけでないが、唐突に主人公のネズミの関わらないことでワニが死ぬのは、あまりに物語として工夫がなさすぎる。

悪かった点③「カエル」

主人公ネズミの「成長のきっかけ」は映画オリジナルキャラクターのカエルだ。

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こいつが驚くほどウザい。生理的な嫌悪が出るレベルだ。

彼はワニくんを失ったネズミくんたちの前に唐突に現れるキャラクターだ。前述したが彼だけが(原作漫画にいないキャラクターだからか)唯一明確に自分の心情を吐露する場面がある。他のネズミやワニ先輩などはワニくんの死に対しての思いなどは決して口にしないが、カエルだけが例外だ。

そしてカエルのその心情吐露が「きっかけ」となってネズミくんが「成長」する。

つまりこのカエルが物語上の最重要キャラクターだ。
ワニ以上に。

しかし、その重要性を考えても普通の感性をしていたらこのキャラクターを好きになることはできない。魅力がひとつも見出すことができない。

今はバイトを募集してないという店員に対して「え、まじかあ、今募集してないんすか、いやー困ったな、募集してると思ったのになあ、まじかあ、え、じゃあこのあたりでバイト募集してるとこ知らないっすか、教えて」みたいに絡むウザさ。
カフェバイト初日からあからさまに女性店員に絡んでいき、はっきりと拒絶の態度を取られてもデートに誘う姿。
同い年だとわかると「え、タメ語でいいっしょ、友達欲しかったんだよねえ、早速友だちゲット、いえーい」的なことをいう神経。

ウザい。ウザすぎる。

実はこのカエル。友人を事故で亡くしていることをネズミに打ち明けるのだが、正直、知ったことか、って感じである。

今までのウザ絡みの原因がその「喪失感」によるものだったのだとしても決して帳消しにならないくらいにヘイトを溜めている。

友人を亡くしている、という自分との共通点一点だけでネズミがカエルに心を許すのも納得がいかないくらいウザい。千歩譲ってネズミくんが許せたとしても、それを知らないはずのワニ先輩やモグラたちがその後、彼を受け入れるのも信じられない。

それくらいウザい。

この映画最大の減点ポイントであると断言できる。

悪かった点④「世界観(世界設定的な意味での)」

これは難癖である。

ワニがワニである意味、ネズミがネズミである意味がない。

例えば『ズートピア』であれば主人公がウサギとキツネである意味があった。ウサギがウサギらしく、キツネがキツネらしく生きるといことから脱する物語である。

漫画『ビースターズ』もそうだ。肉食獣と草食獣という違う価値観の生き物の生き方を描いた漫画で主人公がオオカミとウサギである必然性がある。

しかし、この映画ではワニがワニである必要もなければ、ネズミがネズミである必要もない。しいていうなら「六時のマネ」をやらせたいがためだ。

この映画は実に閉塞的な映画だ。ネズミとワニを中心にした非常に狭い世界の話だ。意識的に社会のようなものは排除されている。

ネズミの職場には(カエル以外の)客も上司・同僚も描かれないし、ワニやカエルの仕事の様子を見ても外部の人間(客・上司)と関わる様子は一切ない。

そしてこの映画のオチは「カエルという外部の人間を、ワニの知り合いという狭いコミュニティの中に受け入れてあげてハッピー」というオチなのである。これは個人的には非常に腑に落ちない。

それまでは「ノリが違う」カエルだったが、ネズミが「あ、こいつは自分と同じだ」と気がつくことによって、カエルを「仲間に入れてやる」というラスト。これは外部の人間だったカエルを自分達と同化させることを良し、それこそが良きことなのだとするラストだと読み取れる。

非常に内向きなエンドだと思う。

考えてみれば、この作品。ワニはワニに恋をするし、哺乳類は哺乳類と結婚する。モブの姿を見てもクマはクマと、ネコはネコと一緒にいる。

同じ動物の擬人化作品たちと比べると、これは非常に排他的な作品だと感じる。そのこと自体が悪いとは言わないけれども。

総論

「無意味な死」があるとすればそれは誰の記憶にも残らないまま死ぬことだ。

「思い」や「経験」や「気持ち」。死んだ人から生きた人へ次々とそれは引き継がれていき歴史が作られていくのだ。

「死」に意味を持たせるためには、必然的に「生」が必要になる。そして「生きていくため」には「死んだ人の思い」も必要だ。生と死は互いを互いを必要としている。私はそう思う。

果たしてこの作品におけるワニの「死」を、ネズミが意味あるものとして引き継ぐことができたのかは疑問が残るところである。

私にはこの映画の結論は「ワニの死によってネズミがいい方向へ成長した」というよりは「ネズミがワニの代わりとしてカエルを内に抱え込み狭いコミュニティの中に閉じこもった」ように見えた。

「ワニの死によって崩壊したコミュニティが、梅雨が開けたようにまた復活する」という事象自体に感動できる人は一定数いるだろが、それではワニの「死」が舞台装置以上の何物でもなくなってしまう。

初めの方でも述べたが、私はこの映画、世間で言われるほどのダメな映画だとは決して思わなかった。作画も声優も合格点だと思うし、いい意味で面白みのない原作のストーリーを一本の映画にまとめろと言われた時に監督や脚本がやろうとしたこともわかる。カエルというオリジナルキャラクターでやろうとしたことも一定程度は理解できる。

社会性とは乖離した閉鎖性に関しても、作者の前向きな意味での「芸術家感」が出て妙味にはなっているとも思う。
あとは死生観の問題だ。

プラスの意味で面白くない原作を、下手に面白くしないで描き切ったの監督の英断だっと思う。ドラマチックにワニの死を描くこともできたかもしれないが、それはともすれば大きな減点にもなり得る行為だ。減点方式で採点すれば私はカエルの存在以外が大きな減点ポイントが見当たらなかった。監督はこの材料をうまく無難な形に仕上げたと思う。

私は是非、今後、電通さんの財力を使って、山崎貴監督で『Stand by me 100日後に死ぬワニ』を制作して欲しいと思う。
山崎監督は原作を良かれ悪しかれ魔改造することで有名なので、その改造が上手くハマれば100ワニも名作になるかもしれない。楽しみだ。

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