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是枝監督『怪物』の感想と考察(鑑賞後推奨)

1.はじめに

この記事は是枝監督の映画作品『怪物』の感想と、私が抱いた疑問点に関する考察を行うものです。性質上、ネタバレ全開ですので、鑑賞前にこの記事を読むことは推奨しません。
 他方で、この記事は、詳しいあらすじなどのネタバレそのものを求める方を読者として想定していません。本記事の読者としては、鑑賞済みの方を想定しています。そのため、特にあらすじの説明等はいたしません。
 なお、この映画の価値はネタバレによって損なわれるものでもないとも思います。それでもやはり、最初はネタバレなしの方が楽しめる人が多いと思います。傑作であることは保障しますので、未鑑賞の方はとりあえず観てくることをお勧めします。
 感想や考察に対して、これはこの点を考慮し忘れているのでは、これはこういう見方もあるのでは、などあればぜひ教えてください。

2.感想

(1)ストーリーラインの見せ方

ストーリー自体は単純化して再構成すると、良くいえば普遍的、悪くいえば凡庸だと感じました。だからこそ、映画は、一つのストーリーラインを、母親(麦野早織)、教師(保利道敏)、息子(麦野湊)それぞれの視点から再現する構成になっているのだと思います。つまり、そのような単純化を安易に許さずに、逆にその単純なストーリーやその中での登場人物の機微を複層的・多面的に考察することを読者に強いているわけです。
 絶対的に思える悪役を出しておき、その悪役の視点から時系列を辿り直すことで物語を複層化する手法は、私の経験ではThe Last of Us 2ですでに経験済みのものでしたので、目新しさはありませんでした。とはいうものの、それほど多く体験したことはないのでもう飽きたというほどではなく、まあまあ楽しめました。
 ただ、問題は、The Last of Us 2と比較したときに、この映画の方はやや整合性や掘り下げ方に難があると思われることです。もちろん何十時間もプレイするゲームと、長い方であっても2時間ちょっとで終わる映画では映画の方が不利なのは明らかですが、①保利の行動が整合的でないように感じたのと、②校長(伏見真木子)の人間像が理解しきれなかったのは残念に感じました。この点は考察セクションで改めて考えます。

(2) クィアネスについて

湊と星川依里の追い詰め方は素晴らしいと思いました。とりわけ、早織が善人で心の底から湊を案じているにもかかわらず(というよりも、だからこそ)、「大切な家族を得るまで」という言葉で湊を追い詰めるのは極めて自然でしかも圧倒的な重圧であり、そこから逃げ出すために車から飛び降りるという湊の大袈裟に思える反応すら、むしろ共感の対象になりました。
 そこまでの流れとしては、湊が早織にはわからない言葉で、自らの性的指向の異常性に対する恐怖を表現しているのも、湊という人間の複雑性を如実に表していると思います。カリフォルニアの火事問題を知っており、母に気を遣い、父が浮気中に死んだことを知りながら母の前ではそれを隠すくらいに大人びている一方で、ビッグクランチによる生まれ変わりに希望を託してしまう(が実はそれがないことを知っている)不安定さ。そこは、単純に子供だから幼い表現しかできなかったわけではないと考えます。むしろ、同性愛が社会的に許容されていないことを、誰が見ても毒親である星川の父(星川清高)だけでなく、湊自身が「優しい」と評価する保利の言動や、自分を真に案じているが故に依里にすら悪く言われたくない母の言動(後述)から窺い知れてしまう(マイクロアグレッション)。そうであるがゆえに、自分の同性に対する恋慕を自分で否定し、あまつさえ、否定の感情を依里に対して暴力的にぶつけてしまう。母に対して率直にそれを言えないのもむしろ当然です。。複雑でありながら自然な湊の葛藤や悩みが巧みに表現されていると感じました。
 ただ、星川の父(星川清高)の人物像は、不動産会社出身である点を含めてステレオタイプ的だと感じました。保利のマイクロアグレッションも、今はそんな言い方する若い人っているかな……と思います。教師によるマイクロアグレッションを表現したくてそう言わせている感じもありましたが、そういう人もいるのかもしれません。
 なお、本記事では上記のように湊と依里の関係を「同性愛」と呼称しますが、実際には依里がヘテロのトランス女性の可能性もあるのでその場合は異性愛にもなります。ただ、依里がトランスジェンダーであるかは明らかではなく、(服装はジェンダーレスのものが多いものの基本的には)現在は男性として生活しているようなので、同性愛と仮定します。ただその男性としての生活も、父・清高によって強制されたものであってジェンダーレスな服を時折着るのが精いっぱいという蓋然性もかなりあります。この点は、映画からは断定できないところです。

(3)早織による湊へのマイクロアグレッション

早織による湊へのマイクロアグレッションはどうして起こってしまったのでしょうか。早織による性的少数者に対する無理解に由来するのでしょうか。
 確かに早織は、片親で湊を育てており、クリーニング屋の仕事も決して楽ではなさそうで、そういうことを勉強する余裕が大いにあるわけではないようです。また、焦ったら同じことを繰り返し言うことをからも、キャパシティが大きい方でもなさそうで、また、大人ながら湊に対して依存しておりむしろ湊に近所迷惑だと注意される幼いところも見受けられます。
 だからといってマイクロアグレッションが正当化されるわけではありません。ただ、劇中の描写からは、むしろ早織のマイクロアグレッションは、無知や配慮の欠如の結果というよりも、結果的にそうなってしまっているだけとも理解できると思っています。
 劇中で描写されているのは、①病院から帰る途中での「湊が一番大切な家族を得るまで……」という一連の発言、②テレビで放映されていたいわゆるオネエ芸人?の「私のもちもち唇~」(みたいなやつ)の真似でした。
 このうち②については、落ち込んでいる湊がテレビを食い入るように見ていたので、早織は面白がっているのだと思って真似したのでした。しかし湊は実際には、すでに自分の性的指向に対してかなり悩んでいたため、実際には港をさらに追い詰め、相談を阻害する結果になってしまいました。これ自体無神経なことではありますが、落ち込んでいた我が子が興味を持っていることで元気づけようとするのはむしろ子供をよく見ているとも言えます。
 これに対して、港は早織の物まねに屈託ない様子で笑いますが、そのように性的少数者に対する攻撃に対して"合わせる"のも性的少数者にとっては日常的なことですね。 
 次に①ですが、これは現在の社会の文脈、つまり同性婚が認められていないことに顕著なように、同性愛者は「家族」として社会的にも認められていないことを前提とすると、正面からのマイクロアグレッションです。しかしながら、実は、同性愛者は「婚姻」をできなくてもパートナーと「家族」になることはできるという考え方もあり得ます(最近の同性婚関係の地裁判決はこの考え方を洗練させていっています。)。このような考え方からすれば、そして早織の湊への思いからすれば、早織は、湊のパートナーが同性であっても「家族」として認めていたのではないか、と思えます。
 それにもかかわらず、現状の社会の文脈からすれば、それはマイクロアグレッションになってしまう、つまり湊が「家族」を作るという期待に沿えないことを確認させる結果になってしまっているのは、まさに現代社会における同性愛に対する差別的な社会制度や通念の帰結でしかありません。
 このように、真摯に子どもを思う親の心さえ、子供に対する攻撃に転化させるのが現代の日本社会だということを改めて確認させられました。

【2023.6.5追記】
「テレビで放映されていたいわゆるオネエ芸人?」の方について情報提供をいただきました。タレントのぺえさん、という方とのことです(出演報告Wikipedia

「私自身は、男とか女とかいう括り自体どうでもいいんです。だから、“男だから”“女だから”という括りと役割に縛られない自分の状態がけっこう好きですね。自由でいいなって」

ぺえが縛られた「オネエ」という役割、葛藤乗り越えたどり着いた先「傷や痛手もすべて財産」
https://www.oricon.co.jp/special/58596/2/

(4)現代に対する批評性

現代に対する批評性が極めて高い映画だということは映画を観た人は誰でも納得すると思います。前節で少し論じた性的マイノリティの問題や、それと深くかかわる教育という問題についてはいうまでもありませんが、もう一つの柱はやはり官僚制の権力でしょう。
 早織が教師たちに詰め寄る時の校長や教頭(正田文昭)たちはまさに官僚制の権化です。校長が、謝罪でない謝罪から始めて、教頭が見せるメモを思いっきり参照しながら問われていることの定義をずらして回答するご飯論法を駆使したりすることで、早織の追求に反論したりそれを逃れるというよりも、無視し続けることで問題を消滅させようとするのは、現政権の多くの大臣の国会答弁や記者会見と全く同じ構造であり、強烈な風刺になっています。校長の対応のあまりの異常さとそれが風刺であることによって、緊迫した必死の場面であるにもかかわらず、おかしみすら感じました。
 この映画では、鑑賞者は早織に感情移入するようになっているので、そのような対応がどれだけ異常で不誠実なものかが誰の目にも明らかになります。しかし、これが現実になると多くの人は政権のそのような対応を無視したり是認したり擁護したりしているので不思議ですね。
 ちなみに、政府の主意書への回答は飯論法の嵐ですので是非一度ご覧になってください。最近ではより酷くて、難民審査関連で、都合が悪い自己の発言を「言い間違い」だと言い訳しています。美しい国、日本!

3.疑問点と考察

以下では、映画を見ていて疑問に思った点とそれに対する私なりの回答を欠いていきたいと思います。

(1)保利の人間性

最も違和感があったのは教師である保利の人間性です。保利は湊からも「優しい」と評されつつも、言葉の端々で「男らしさ」を規範として用いてしまうので、依里からの信頼を得られず、いじめについて相談されません。結果として、保利は湊が依里を虐めているものと解釈してしまいます。
 それは仕方がないとして、保利が一貫していないのは、早織に対する対応です。保利視点では、保利は早織に真摯に説明したかったのに、教頭などに抑圧されてしまうことになっています。これはこれで納得しそうにもなりますが、思い出してください、早織パートでは保利は話し合い中に飴を食べ始めました。保利のその他の酷い様子はぎりぎり説明がつくかもしれません。謝罪が本心でないから適当な謝罪(でない謝罪)をした、教頭から母子家庭はクレーマーだと言われていたこともあり八つ当たり的に早織に対して母子家庭はクレーマーになりがちだとか、湊は依里を虐めているとか言った、その他の不躾な態度も早織からしたらそのように見えたとか。しかし、謝罪の話し合い中に突然に飴を食べはじめたという行動は、どうしても説明がつかないと思います。
 飴を食べ始めるのは確かに度肝を抜かれましたし、監督も脚本家のそのような発想を誉めています。

永山さん演じる保利(ほり)が飴をなめるシーンがあるんですけれど、僕には絶対に書けない。人の可能性に対する幅が、坂元さんは独特なんです。

https://www.harpersbazaar.com/jp/culture/tv-movie/a44010177/koreeda-nagayama-kaibutsu-interview-230602-hbr/

確かにそこはすごいんですが、それで保利パートとの整合性が失われてしまえば元も子もないように思いました。
 ただ、保利が悪い人間ではないのは、(保利が依里を虐めていると思っている)湊ですら「優しい」と評価していることから明らかだと思います。しかし優しさは意思のなさの裏面かもしれません。校長や教頭に対抗しきれずに従順に従った結果としてああいう羽目になっています。

(2)湊はなぜ嘘をついたのか

これは、湊が保利を「優しい」と思っていたことからくる甘えと、「男らしさ」によるマイクロアグレッションから生じる不満が一体となって、つい保利のせいにしてしまったのだと思います。依里も口裏を合わせていましたね。放火をやってのける依里からすればあれくらいの演技はお手の物でしょう。
 これに対して、湊が猫で遊んでいたと告発した女子はなんだったのでしょうか。おそらくですが、告発した後に湊か依里から真相を聞くとか、校長の前で言うのが怖いなどの理由で、言っていないと嘘をついたのだと思います。

(3)嵐の日の出来事

嵐の日には実際には何が起きたのでしょうか。私の整理だとこういう感じです。

  1. 湊、依里から連絡を受け取る(自殺をほのめかす内容?)

  2. 湊、依里の家に駆け付けて、着衣のまま浴槽にいた依里を浴槽から助け出す(凍死や病死を狙っていた?)

  3. 湊と依里、隠れ基地へのバスへと向かう

  4. 早織、湊がいないことに気づく。ほぼ同時に、作文の横読みから湊が保利を虐めていなかったことに気づいた(同性愛までは気づいていない?)保利が、湊の家の前で謝る。

  5. 湊と依里、土砂崩れの予兆を感じるも、バスの中に居続ける。

  6. 土砂崩れ発生。バスは横転?

  7. 交通封鎖が行われる

  8. 早織と保利、トンネル付近に到着。制止を振り切って隠れ基地へ。

  9. 早織と保利、バスの窓を開ける。

  10. (ラストシーンを次節で考察)

  11. 早織と保利、二人でトンネルから焦った様子で出てくる

  12. (上記の時系列のどこか)依里の父清高が道路で滑って転ぶ。校長が増水した水路を傘もささずに眺める。

以上です。1、2、4の括弧は映画からははっきりしない私の推測です。

(4)ラストシーンの解釈

ラストシーンについての私の解釈です。
 まず、ラストシーンで、二人が走っている描写は、現実ではありません。精神世界か登場人物の願望かあの世か夢か、そういったものを表しています。理由は二つあります。①嵐の直後であるにもかかわらず走っている道や草が濡れていない、②本当はあるはずの線路前の柵がない、です。
 それでは湊と依里は生きているのでしょうか。死んでいてもおかしくはない描写ですが、私は生きていると思います。嵐の日の11で早織と保利が焦った様子で出てくるのは、意識を失っているものの生きている湊と依里の救助を求めてではないでしょうか。もし死んでいたとしたら、その場で悲嘆に暮れて、出てこられないのではないでしょうか。この理解だと、ラストシーンは二人のうちどちらかの夢だということになるでしょう。
 この解釈で不自然なのは、早織と保利が二人で出てきた点です。もし湊と依里が生きていたら、ふたりは自分自身で救助そて、それぞれを背負って帰ってくるのではないか、とも思えます。ただ、実際の状況として、バスは横転してしまっており、その場所までもかなり過酷なので、いくら健康な男女と子どもとはいえ、それぞれを背負って帰ってくるのは困難だと考えます。
 しかしそうだとしても、救助を呼ぶのは一人でよいはずなので、もう一人はバスに残っていればいいじゃないか、ともいえます。これは確かにそうなのですが、二人とも出てくるのが不自然なのは、湊と依里が死んでいてもそうなので(遺体を保護するためにどちらかはバスかその付近に残らないか?)、映画の画の都合なのかも?と思いました。

(5)ほかに気づいた点や疑問点

  1. 保利の彼女(鈴村広奈)は、性的同意に対する拒否を嘘だと教えろ、と保利に言っている、性的な嘘つき。そのため、保利を見捨てて出ていく際にも、保利にキスをして黙らせることができた。

  2. 嵐の日に早織が湊の部屋から駆け出す時に散らばるポストカードのようなものは、怪物だーれだに使っていた絵

  3. 校長は最初から最後までクズでムカついた。誰でも手に入れられるものでなければ幸せとはいえない、っていう発言はどういうことなのか、なぜそういうのかよくわからなかった。

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