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エポケーする 5/365

昨年、僕がよく目にした、耳にしたワード。

エポケーする

もとは古代ギリシャ哲学の懐疑論者たちが「世の中には何一つとして確実なものはない」との立場から、「判断を控える」という意味でエポケーという言葉(概念)を用いていたようです。

判断を控える

わたしたちは正解、不正解の中で育ち、生きることは判断をしていくこと、みたいな感覚があります。

判断をしたから、こうなったという因果で物事が組み立てられています。
いつも何かを判断する必要に迫られている。
そして、その責任を負う。

エポケーするとは一度、その判断を控え、保留にするということです。

言葉にすると、それだけ?って感じもするけど、本当はもっと奥深い意味があると思います。


僕の見解では、エポケーするって、判断を保留すると同時にその判断をしている自己を解析してみるっていう感じです。

判断をしようとしている対象はもしかしたら、自分にだけそう見えているのかも?
だとしたら、どうして自分はそう判断をするに至ったのか?

わかりやすく言うと、そもそも・・・なんでだっけ?
というスタンスですね。

システムで覆い尽くされた現代社会は色々な事が可視化されたことにより、すごく判断する場面が多いです。
ああしたら、こうなるという仕組みで溢れ、判断とその結果を享受することで忙しい。
ああしたから、こうなったという判断、結果がたくさん目の前に現れます。

今現在の感染症に関する考え方も、ニュースなどでは簡単に感染経路や経緯を、さも見えているかの様に報道していますが、実は全く的外れな見方をしている可能性もあります。
実は誰も何もわかっていないのかも・・・

これだってエポケー出来るのです。

そうなのかどうかは、一旦保留して、どうして、感染症をそのようなものとして見るのか?どうして、感染症が流行っているという認識をわたしたちがしてしまうのか?

わたしたちの認識の仕方にもっと注意を向けるという姿勢だと思います。
一度ひっくり返して見直す姿勢です。

そもそも、外側に何か実体があって、それに対する判断を迫られている気がしていますが、実は内側にその認識の原型を持っているはずです。

それが何なのか、内側に何があるのか、突き止める方が本質だということです。

判断をしたがるのは、おそらくただの癖です。反応です。
目の前の事象を対象として判断してしまうのは、主体と客体が分かれているように見えているから。
言葉を扱うことによって、全体からある概念を切り離すという作用が起きます。外側の世界は言葉から起因する実体の無い概念世界でしかないのに、それを有ると判断したくなるのです。
これは、言葉を持って世界を構築した人間の宿命です。
ただの人間の癖なのです。

この認識の根本に気付かないといつまで経っても、実体の無い世界の方に反応し、縛られ、不自由なままです。

しかし、わたしたちの中のネオは徐々に気が付き始めました。

だから、そこを解体するのです。
判断を保留にするというのはそこに意味があります。

全ての認識を一度、自己側に取り入れて、そこから外を見るのです。
そうすれば、自己側にその根拠があったと認識できるはず。

それがエポケーの最も大きな意味であると思っています。

エポケーは元々哲学用語ですが、これって量子力学とも似ていますね。
観測主体の存在なしに、物質が存在していると言えない。

世界の認識、物質の認識共にその根源はわたしたちの内側だよ、と科学がきちんと提唱しています。
哲学も物理学も同じことを言っています。
それも、随分前から・・・

もう、そろそろ、わたしたち現代人がそれに気づくときですね。

近年の感染症騒ぎは、そのことに対する目覚めのサインです。

一旦、エポケーして、どうして自分はこれをこのように認識してしまうのだろう?という問いが大切なんです。

その為に、わたしにはこう見える、わたしにはこう感じられるという立ち位置を定めなければいけません。
それがそれぞれの世界の起点な訳だから。


今年も僕の執筆のテーマは

意識と世界の繋がりを構築するゲシュタルトを作る

です。

意識と、この世界は繋がっている。

その直観を言語化、構造化していきたいと思います。