見出し画像

出雲の魂

ゲストハウスをやろう!

ただただ憧れや、イメージが突き動かしたゲストハウス構想。
島根県出雲市の須佐神社の目の前でゲストハウスを始めました。

ゲストハウス・すさのわ

画像1

このゲストハウス作るにあたって、須佐神社、スサノオという神様、神社周辺の地域、この家に代々住んでいた住人…等々、新しく知ることができたり、繋がりができたり、そういうことがすごい貴重なんだと思います。
ここを始めなければ、さらっと過ぎ去っていたかもしれないたくさんの事象。

そのひとつが、スサノオの存在。
須佐地方はスサノオがこの土地を気に入って自らの名前を付けたといわれる場所。この辺りはスサノオ終焉の地ともいわれています。
この地に入ればいかに地域に愛されているのかすぐわかる。至る所にスサノオというワードを見つけます。

国譲りでこの世をアマテラス系(天津神)のニニギノミコト、あの世をスサノオ系(国津神)のオオクニヌシが治めることになったと出雲神話では語られます。
三貴神では姉にあたるアマテラスと弟のスサノオ。このアマテラス系とスサノオ系の2つの系列は太陽と月に例えられたり、ある時は対極的に描かれたりもしています。両方とも神道界では大変重要な神様です。

スサノオについて考える中で、この二つの関係と、私たちが育んできた文明との間には何か大きな意味があるような気がしてきました。

出雲は縁結びで有名。出雲市の空港、出雲空港には別名「出雲縁結び空港」という名前が付けられています。出雲の代名詞、縁結び。十月が神無月といわれるのはこの時期に全国の神々が出雲大社に集まって縁結びの会議をするからだと言われ、出雲ではこの時期を「神在月」といいます。
この事実、神様界からするとあまりにもスペシャルな内容。出雲とはそういう場所なのです。

あの世とこの世。顕在と潜在。見える、見えない。この世の大きな二元を表す大事な概念。
出雲の神はこの見えない側を支えている神様と言ってもいいと思います。
スサノオから始まったこの神様の系譜。これはいったい何を表しているのでしょう。
出雲神話を読むにつれて、これはただ昔あった話を隠喩して後世に伝えたものではなく、現代の私たちに託された、未来へのヒントが隠れているような、そんな気がしてきたのです。神話から神様の意図を読み取ってみよう!そんな無謀な考察にチャレンジしてみます。
そう思って神話を読むと例えば、スサノオとアマテラスの対立・・・これが意味することは?この二元性の意味は?

見えるもの、計量できるものを基準に価値を定めてきた唯物論的価値観と、見えないけど、感じられて私たちを動かしている精神的価値観との対立と読んでも面白いのではと思います。アマテラスは顕在、見える世界の象徴。スサノオは潜在、見えない世界の象徴。アマテラスは照らすわけだから見えるという世界。スサノオはその対照。
この二項は現代的に言えば科学と宗教に置き換えられないでしょうか。科学もある意味一つの思想。この二つの思想は更にざっくり分ければ西洋思想、東洋思想にも発展していきます。アマテラスを西洋の象徴と捉えるのは違和感があるけど、それは一旦横に置いておいて話を進めていきます。

我が国は明治以降近代化を目指し、西洋の科学技術を取り入れ文明を発達させていきました。そして今では経済的に豊かな国の仲間入りをしています。
こういった経済発展が今の私たちの豊かさを支えているし、生活が満たされた今があります。
おそらく西洋人が日本へ入っていく中で、日本の宗教、神道をうまく取り込んでいくことは重要だったと思います。彼らが持っているキリスト教的精神と文明の開拓はセットで突き進められてきたようです。日本の土着の神様と自分たちが信仰する西洋の神様。おそらく日本の神様を表に立てつつ、徐々に裏の精神構造は自分たちが信じている神様に変えていったのではと思います。

そうして近代以降の神道は国家神道のような形になり、古来から日本人が重じていた精神性よりも一神教的な神、戒律や決まりを重んじる、支配者側に使われやすい神、宗教になったのではと考察できるのです。そこで担がれたのがアマテラスではなかったのか?

そういった根拠でアマテラスとスサノオを対比しています。

ではもう一方のスサノオとはその時代から、今に至るまでどういう存在であったか。
そこについては、こう考えます。スサノオはあくまでひとりひとりの中にある精神性。霊性。魂。ひとりひとりが自らの霊性を信じる力。形となって表れている元になるイデアのようなもの。

このような対比で考えると文明の発達と精神の荒廃。集団から個へと現代のフラクタルな構造も見えてきます。

日本人の精神性が失われつつあると言われる昨今、その源流を守ってきた地域、それが出雲ではないでしょうか。国譲りであの世を治める役割を担ったということはひとりひとりの内在の神を見えないところでつなげてきたとも解釈できるのです。

近代以降、経済が発展するにつれ都市と地方という差が生まれ、人口は都市の方へ流れ出しました。地方は過疎化という問題を抱え、何とも日の当たらないイメージ。こういった流れの中で地方の問題というのは語られてきました。

経済成長を目的にすれば明治以降の西洋化にいち早く乗ったほうが合理的だったはず。都市へ出かけ、そこで住み、新しい時代の豊かさを手に入れた人々はどんどん増えていったでしょう。この時代から生きていくことと、お金を稼ぐことがイコールでつながり始めます。お金がなければ何もできない・・・。

気が付けば無意識にお金を信仰しているような、現在の日本人。そんなことを意識することもないくらい当たり前にお金によって動き、お金によって動かされています。

世の中はこのように流れていく中で、出雲は神社、神事、風習など大切に守ってきました。この土地に住むとそのことがよくわかります。

経済や合理性を追求すれば、自ずと各地域の風習や行事は後回しにされてしまい、いわゆる儲からないことは二の次になります。経済効果が重要視される都市の立場からみると優先順位は下がります。

しかし、古くからの伝統、文化を受け継いだ住民たちが途切れることなくつないできた暮らしは、中にその精神性を内包しています。主体性がなく、白黒はっきりしない日本人と、捉えられがちですがその中庸さや、他を思いやる気持ちは表層だけでは計り知れない深さがあります。

物質的な豊かさを求めた陰でひっそり、脈々とつなげてきた日本人の精神性。出雲の魂。

最近、資本主義の限界や都市社会の問題も露わになってきました。
見えるもの、軽量できるものをベースに考えると、私たちの存在はテクノロジーや情報に飲み込まれてしまいます。
私たち人間の尊厳をどこに置く?
テクノロジーの進化で嫌がおうでも考えなければならなくなった人間とは?という問い。

その答えは見えない世界を治めつづけてた、出雲の神様を知ることで見えてくるような気がしてなりません。
スサノオはその象徴。
出雲市須佐神社近くの地でここのところをじっくり探究していきたいと思っています。

スサノオが八岐大蛇を退治したように、私たち自身も囚われから自由になり、新しい時代を切り開いていくのです。