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いよいよヌーソロジーを語ってみます!

以前書いた記事「世界を構造化する」の続きです。

止揚により、発展してきた世界。
今、その世界をひとりひとりが享受している訳ですが、その世界を五感を通して感じているわたしという感覚があると思います。

世界を受け取っている感覚です。

その時の受け取り方として、構造化された世界の組み立てられ方をわかっているのか、感覚、印象としてざっくり受け取っているのか、その違いがあります。

こういった世界の感じ方の違いは例えば、右脳的、左脳的、それを感覚的と論理的という二項で脳の構造として考えられることもあります。

右脳寄り、左脳寄り等、脳内処理の違いというイメージが一般的にはあると思いますが、世界の構造化という意味では感覚に頼らず、もう少し明確なロジックが必要だと思います。

そのロジック・・・僕が一番頼りにしているのが「ヌーソロジー」という思想体系です。半田広宣さん提唱の宇宙論。
以前の記事にもちょくちょく書かせてもらってます。
詳しくはヌーソロジーのホームページをご覧ください。
めちゃめちゃ面白いですが、中々、きちんと理解するのは難しいです・・・


ここから先は、ヌーソロジーから僕が受けたインスピレーションと考察を自分なりに解釈したことを説明していきます。
本家本元のヌーソロジーとは若干違う解釈もあるかも知れないので、そこはご了承ください。

ヌーソロジーにはそれぞれ独特の概念があります。
その中で、僕が重要だと思う部分を切り取って説明します。

・ヌースとノスという精神構造

ヌーソロジーにはヌースとノスという言葉、概念があります。
ヌーソロジーの語源にもなっている「ヌース」とは、知性、理性、精神、魂などを意味するギリシャ語です。神の知性とも呼ばれます。
僕は能動的な知性と解釈していて、産み出す方の精神です。
対して、「ノス」は産み出された世界を受け取る精神です。

ヌーソロジーではヌースが上昇、ノスが下降しぶつかったところに物質世界が生まれていると考えます。

まず、ここで重要なところですが、今わたしたちの周りにあるこの物質世界は決してビッグバンから始まって、物質的な進化をした結果、存在しているとは考えないということです。
ヌースとノスの精神が絡まり、物質世界が出来ていると考えます。

そして、ヌーソロジーはその二つの精神がどう絡まって、世界が出来ているのか、そこを幾何学的にロジカルに説明していきます。

・次元観察子という概念


そして、次元観察子という概念です。ここに次元という言葉が出てきますが、次元が上がるほど抽象度が上がっていきます。
その次元というのは、今の人間の世界より、もっと高次元の世界があって、それは正直、感覚的には分からないレベルにまで続いています。
なのでそこのところの説明は省きます。

しかし、日常を生きているわたしたちにも分かりうる次元観というものもあって、普段は無意識化しているゲシュタルトを次元観察子という概念で削り出していくことは出来ます。

観察子という概念もヌーソロジー独自だと思いますが、ここはいわゆる量子論でいう観測という行為と考え方は似ていると思います。

量子論もヌーソロジーも観測という行為をただ見る行為とは考えません。
観測することは次元が一つ上がることを意味しています。
次元が上がればゲシュタルトが変わります。

そして、更にヌースとノスを現実的には自己と他者という違いに分けて考えます。
自己と他者で精神を絡ませるのですが、この場合、自己精神と他者精神を最も、根源的な二元として止揚していく訳です。

その構造体が次元観察子。
ヌーソロジーではこの観察子に名前を付けていてψ1~ψ14(ψ:プサイ)まで番号が振られています。
この構造を理解することが出来れば、見ている世界、感じている世界をすっきりとした形で整理して認識することが出来ます。

そういった考え方は古くは哲学、近年では心理学などが担っていると思いますが、空間的構造と密接に関係していくところがヌーソロジーの新しいところです。

空間は見えている世界です。
概念だけにとどまらず、実際の視覚世界を大事にします。
その視覚世界の認識をあやふやなものせず、きちっと概念化します。

そこでやっと、前回書いた記事内容、触れた世界、触覚の世界の話と繋がります。

“それは触れるということではないでしょうか?”

この触れた世界、触覚の世界がψ1~ψ2と言われています。

何も見てない状態で例えば、ものに触れた。
するとその触れたところから逆向きに何か、力を返してくると思います。

ψ1は触れている主体としての自己側。
ψ2はそれを押し返す客体側の世界。
ψ1がヌース、ψ2がノスです。

このψ1とψ2で一つ世界が出来たと考えます。触覚の世界です。

そして止揚により、次元が上がり、次はψ3とψ4です。

ここから、いよいよ視覚の世界です。
普段、何気なく見ている視覚の世界。
わたしたちは普段どこから世界を見ていると思いますか。

現代の常識からすると目に光が入ってそれを脳が処理して見えていると考えます。
でも、それって何か変ですよね。自分では自分の目を見ることも出来ないし、見たことも無い。自己の世界からは自分の目なんて無いですね。

その前に既に見えています。見え姿があります。
まずこれがψ3のヌースです。
対するノス側のψ4ですが、これは見られた空間となり、視覚の中に自己の肉体を想像します。創造的自我。これは現実空間にはいない自己です。

発達心理学では鏡像段階とも言われ、乳幼児が自分の視野に映る人間をみて、自分の姿をそこに同一化していく過程です。乳幼児はお母さんに覗かれて、お母さんの顔を見ていると、自分もあんな顔があるんだと認識し始めます。そういう世界をψ4とします。

そして、このψ4にψ1、ψ2の触覚の世界がくっついてしまっています。
この世界は、見られた自我と触覚のかさばりをすべての物に当てはめてしまいます。ここに五感の混在。本来視覚と触覚は次元が違うのに、一緒くたにしてしまうというおかしな状態が起きてしまいます。

これが幅の世界。

ヌーソロジーではよく幅の世界と奥行きの世界という言われ方をします。

視覚の世界では、もののスケールは身体の近くだと大きく見え、遠くだと小さく見え、縮んだり、伸びたりしますね。

見たままの世界ではそういう振舞いをする(ψ3)のに、ψ4ではそれに触覚(かさばり)を足してしまうので、かさばりベースつまり、触れた感覚の計量をすべてのものに当てはめます。
そして、月は大きいとか、宇宙は広いとか言うんです。
でも、夜空に浮かぶ月の見え姿自体は、手に持ったコインの大きさとあまり変わらないですね。

こういう、認識の差異を理解すること。

それがとても重要です。

ψ4まで来ました。

次はψ5,ψ6です。
この段階でいよいよ他者が入ってきます。

わたしにはわたしだけの見え姿があるということは、あの人にもそういう見え姿があるんだと思ってみている世界。

ψ5は他者意識を取り込んだ空間意識です。
ψ6も他者存在を取り込んでいますが、またしてもここで触覚を持ち込みます。
するとψ1~ψ2の次元のものの内部性から抜け出すことが出来ません。
依然、幅の世界で空間を認識してしまいます。

そして、一旦の区切りψ7~ψ8。

ここはわたしたちが普段、社会と認識している世界です。
ここはまず、ψ8をイメージした方が分かりやすいですね。
たくさんの人の中にいるわたしという存在。
70億分の1のわたしという存在。
広い宇宙にポツンと存在するわたしです。
他の誰かと比較して、落ち込んでみたり、優越感を感じたり、いわゆる、普通の人間としてのわたしの存在ですね。

では、ψ7ってどんな世界でしょうか?
これは集合意識とか、一体感とか、繋がりとか。普段は心で感じている部分と言えると思います。一言で言えば愛なのかも知れません。


そして、このψ7とψ8でわたしたち、人間は悩みます、葛藤します。
それがまさに人間の世界。


このようにしてヌーソロジーで考えられる、ψ1からψ8までの観察子が出来上がりました。
これが僕が世界を構造化してみるということの第一歩です。
このように世界をみていくのです。

・転倒している人間

そして最後に
人間が転倒している。というところの説明です。
哲学者ニーチェはじめ、古くからの神秘思想に人間とは転倒した存在であるという考え方があります。

これはいったいどういうことかというと、先程から説明しているヌースとノスの順番のことと考えられます。

ヌース先手かノス先手か。

本来の宇宙の生成はヌース先手です。
能動知性がまず動いたことで、その反映で受動精神が発動するはずです。

しかし、人間は受け取ってから思考します。五感で受け取ったものは、本来は結果のはずです。

これが、プラトンの洞窟の比喩で言うところの、影です。

その本質はイデアの方。
観察子のψ1から2,3,4・・・と重なっていけば、宇宙の生成と一緒に能動的に生成していくことが出来ます。

しかし、人間はψ2からスタートしてしまっています。

ψ2-ψ1、ψ4-ψ3、ψ6-ψ5、ψ8-ψ7

と鏡で映したように反転した世界を見ているのです。
それが、反転の理由です。

だから、スムーズに観察子を上がっていけない。
構造が見えない。
だから世界を何だか分からない印象としてしか認識できません。
そして物の内部性から出られないのです。
上の次元まで幅の感覚を持って行こうとしてしまう訳です。
幅はヌースではなく、ノスなのです。

そういった転倒現象が起きているので人間だけが、世界の生成と逆向きで様々な問題が起こっているのだと思います。

このゲシュタルトを本来のヌース先手に戻そうと考えているのが、ヌーソロジーであり、僕が考えるゲシュタルトも同じくです。

この考えって、よくよく考えると、人間の存在意義、活動の意味についてひとつの答えが出ます。


なぜ人間は生きるの?


そういった青臭い質問には答えないというのがひとつの大人らしさと言えるのかも知れませんが、人間というシステムとして考えると、なんと・・・

転倒に気が付くこと

という答えが出せるのかも知れません。

人間はなぜ生きる・・・?
という根源的な質問はいつの時代にも、人間を困らせます。

これはどう生きるべきかという、道徳性が絡んでいるからです。きっとそれは時代でも違うでしょう。答えの無い問いと考えられがちです。

しかし、もう一つ別次元の生きる意味、転倒に気づくこと!

その転倒の構造を明らかにすることが生きる意味。そういった本質的な考え方も有りな時代になったのではないかと思っています。

その為には、思考です。

ヌーソロジー提唱者の半田さんはこう仰ります。

『感じるより、それを超えて考えろ』

そう、感じるだけでは足りないのです。

まだまだ、今の僕には思考が足りませんが、こうして少しずつ言語化、構造化していくと、そこから新しいゲシュタルトが見えて来ます。
最近、少しずつぼんやり、見えて来ましたが、本家ヌーソロジーは、もっともっと奥深いんです・・・

そんな思考のサロン的な場所としても、すさのわを使っていきたいと思っています!やはりこういった気付きはとにかく話すこと。
当たり前を疑い、敢えて無意識を意識化する。
そんなことを楽しみながら続けていきたいと思います。