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物部氏とは?その2 176/365


物部氏に関する解説記事、その2です。

その1では、物部氏の定説的な側面をご紹介しました。

物部氏や始祖のニギハヤヒは謎の多い存在で、物部氏は蘇我氏との戦いで敗れ没落していった勢力とされています。

しかし、その1の最後にも書きましたが氏を変え、その後も力を持ち続けた存在。その勢力は東北地方まで伸びたとも。

また、今現在も続いている、伯家神道の中に十種神宝の行法が引き継がれています。

伯家神道(はっけしんとう)は、花山天皇の子孫で神祇伯を世襲した白川家によって受け継がれた神道の一流派である。白川神道(しらかわしんとう)とも呼ばれる。

Wikipedia

律令で祭祀を司る神祇官というお役所が作られましたが、祭祀の内容は物部氏が天津神から授かった十種神宝がベースにあったと考えられます。
天皇は古代から祭祀を司る存在でもありますが、その祭祀的な側面はこの物部の霊力を用いたものではなかったのかと推測されます。

謎の多い物部氏。
ここから先は歴史作家関裕二さんの説を参考にして説明を続けていきます。(参考文献:「新史論」)

関さんの説によると、九州の強大な勢力に対抗するため、タニハ(丹波、丹後、但馬)、近江、東海の勢力が大和の纏向に集結し、そこに吉備と出雲が加わった連合国がヤマト建国の初めとされています。

そして、このヤマト建国をまとめていたのは、崇神天皇です。

大和での物部の勢力地は河内の八尾市から始まっています。
日本書紀によると、ニギハヤヒがこの土地から大和に入ったと言われています。

では、どこから入って行ったのか・・・
そこは八尾市から出土する土器を調べていくと推測ができるようです。
その場所は吉備國からだと考えられます。
八尾市からは吉備で作られた土器が大量に出土するのです。
また、弥生時代の吉備で見られる古墳や土器が纏向で多く発掘されています。
こういったことを踏まえると、物部氏は吉備から入って来たのではないかと推測されるのです。

初期のヤマト建国は吉備勢力が力を持っていたと考えられます。

そこで、関さんの斬新な説です。

崇神天皇=ニギハヤヒでは・・・?

日本書紀には、イワレビコが大和に来たとき、既にその土地にいたのがニギハヤヒと書かれています。
ニギハヤヒ
はイワレビコに大和を受け渡して、イワレビコが初代神武天皇になったという流れです。

日本書紀にはこの部分は、ヤマト建国の時代よりもずっと昔のこととして書き記されましたが、実はヤマト建国の過程をずっと昔の設定として、書き残したのではないかと関さんは推察されているのです。
そう解釈をした上で、ニギハヤヒと崇神天皇を同一人物としてみていくのです。
ニギハヤヒが河内から大和に入ったという内容は、物部氏が吉備から大和へ入ったことを時代を変えて書いているという解釈です。

初期のヤマト建国はタニハ(丹波、丹後、但馬)、近江、東海、吉備、出雲の連合国でした。
初期は吉備を中心とする瀬戸内海勢力が日本海側勢力より強大だったと推測できます。

どうして、ヤマト建国は連合国家で作られたか?ということに関しては、九州と対抗するためだったと考えられます。

九州は独自で朝鮮半島との交易のルートを持っていました。
九州と対抗するためには、その他の地域は連合する他なかった。
当時、朝鮮半島と直接繋がっているということはそれだけの力を持ち得たのです。

そこで、いよいよ、ヤマト政権は九州に派兵します。
ここで派兵されたのは日本海側勢力の神功皇后、武内宿禰です。

神功皇后と武内宿禰は九州を制圧し、そのまま南下。
そして、そこで独立国を作ろうとします。

ヤマト政権はそうはさせまいと、さらにそこへ派兵し制圧しました。

こうして、一件落着かと思いきや、その後、大和で大規模な疫病が流行りました。
これは、神功皇后、武内宿禰の祟りではないかと考えた当時のヤマト政権は神功皇后の息子を大和に招きます。

それが後の応神天皇であるという訳です。

ヤマト政権は九州から招いた応神天皇を祟りを鎮めるための祭祀王として重用します。

このことがニギハヤヒがイワレビコに大和を受け渡した、いわゆる神武東征の話として書かれていると読み替えていくのです。

応神天皇=神武天皇

時間軸がずれているので、真正面から日本書紀を読んだだけでは理解が出来ませんが、他の書紀や出土品、古墳などの年代分布を考慮すると、神武東征の話は、ヤマト王権の成立から、発展までの経緯を表す内容ではないかと、解釈されているのです。

その2はここまでです。ちょっと頭がこんがりそうです・・・(笑)

いわゆる定説だけでは理解が出来ない、物部氏。

歴史学者。関裕二さんの説を参考にして、解説をしてみました。

物部氏とは?その2(まとめ)

・物部氏に伝わる十種神宝は、現在も存在する伯家神道に引き継がれている。
・天皇は古代から祭祀を司る存在でもあったが、その祭祀的な側面はこの物部発祥の祭祀的な力を使ったものではないかと思われる。
初期のヤマト建国は九州に対抗するため日本海側、瀬戸内側、タニハ、近江、東海を集結した連合国だった。
・ヤマト建国は吉備出身の物部氏によるものだった。そのことが日本書紀においては、神武東征前はニギハヤヒが大和を治めていた、として書き記された。崇神天皇=ニギハヤヒと読み替える。
・ヤマト政権は九州を征伐しようと、日本海側勢力の神功皇后と武内宿禰を派兵。神功皇后と武内宿禰は九州を征伐し、そのまま南下して独立国を作る。そうはさせまいと、大和から派兵して討伐する。
・その後大和で大規模な疫病が発生。これは神功皇后と武内宿禰の祟りではないかと考え、ヤマト王権は神功皇后の息子を九州から大和へ招く。招かれたのが、後の応神天皇応神天皇=神武天皇。これが日本書紀に書かれた神武東征の話。

次回は物部氏とは?その3で続きを解説します。

今回は物部氏とは?というより、ヤマト建国の成立についての内容が主でした。
しかし、ここでも物部氏の力は通奏低音のように鳴り響いています。
奈良時代に編纂された日本書紀をそのまま解釈するのではなく、いろいろな視点から考察すると、物部氏の存在は記実の外から浮かび上がってくるようです。
そこが、やはり物部の霊力なのかも知れません・・・