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Peaceful ending

「4月から異動です。今までありがとう」と3/22に言われた。
今のチームに2年、その前から掛け持ちで1年。この仕事は3年やった。
アンパンマンの顔がなくなることも度々あり、ポジションに求められる働き方は私の大事なものを犠牲にさせる感覚があって、もうそろそろいいかな、とは思ってた。

でも、あと1週間でおしまいです、と突然に告げられると、「そっすか、了解っす。あざした!」とは勿論ならなくて。

終わると知ってから、終わるんだとわかるには、時間がかかるなと体感した。

3年間の断片を順不同に思い出して、物語にして語らせてもらうにつけて、清々しさとさみしさがだんだんと染み渡っていった。

節目が来たからこそ、今ここで湧き上がる気持ちを言葉にして送り合えた。それはすばらしい贈り物だった。

そんなふうに今ここは二度と戻ってこない大切なモーメントなのに、現実は様々な締切が暴力的なまでに追いかけてきて、手の中からサラサラと流れ落ちるものを味わうことを許してくれない。

終わりゆくものを感じていたいのに、次が勝手に始まってしまう。
まだ話し中なのに、呼んでない次の人が入ってきちゃう。
止められない流れの中で、その小さな痛みを感じ続けていた。

このことに、自分は変わったなあと思った。

大学生のとき、専攻を変えて、大学院も変えて進学した。
4年の後期は修士で学ぶことになる全く別分野の論文を読んでて、卒論の論文が全然進まなかった。
ほんと、気もそぞろだった。

大学院のとき、働き始めるのが楽しみで、一方でなかなか修論のツメが甘くて留年もチラつき、つくづく疎ましくかった。
もう全部放り出して、次に行きたかった。

私は新しく始まることが好きで、終わりゆくものにはトコトン興味がないのだと思ってた。
だから、この特異的な1週間をこれほどにかけがえのないものと感じて、大切に味わいたいと思うなんて…
味わえない痛みとともに、そんな驚きも感じていた。

たった1週間しかない異動前のひとときをどう過ごしたいだろう?と自問して、答えが出ないうちに終わってしまった。
ただ、そんな問いが浮かぶ時点で、答えはすでにわかっていたのだろう。
そして、その通りに過ごそうとして、カンペキにはできなくて痛みを感じたことまで含めて、大切なことは逃さずに働いて生きたと思う。

限りがあると思うと、人はこんなにも生きられるのか。

人生の節目に、こころからのありがとう。