見出し画像

消えた銅鐸の謎 4

【4】銅鐸はなぜ忽然と消えた?
さて、ここからはやや妄想の域を出ないかもしれませんが、お聞きください。
 先ほどからも触れていた謎ーーなぜ忽然と銅鐸は消えたのか?を検証します。


銅鐸は、みな不思議と集落から離れた、小高い丘陵の斜面に埋められていました。 入れ子状態で丁寧に埋めたもの、わざと丁寧に割って埋めたものなど様々です。 が、彼らは本当に外敵に敗れて、あわてて銅鐸を捨てたのでしょうか?

下のグラフをご覧ください。
これは、総合地球環境学研究所(京都市)の中塚武教 授(古気候学)らが、近畿や東海の樹木の年輪から約 2600年にわたる降水量の変化を調べたものです。

AS20181205002263_commLのコピー


このグラフによると、 西暦1年~100年(=紀元1世紀)は、
水害よりも降水量の少ない年が明らかに多く、毎年のように干害に見舞われていただろうと容易に推定できます。
 雨乞いの銅鐸は、さらにパワーが必要だとして徐々に 大きく作られていったと考えられます。
ところが西暦100年を過ぎる2世紀には、今度は洪水をはじめとする大水害、
 そしてまた日照り、と言った極端な天候の変動が水田稲作民を襲うようになったわけです。

さらに追い討ちをかけるように、弥生時代晩期になると気温が急激に低下
いわゆる「古墳寒冷期」が始まります。 (下グラフ・水色の部分)

画像2


こうなると冷害でコメは育たない、大水害で田んぼは流れる、翌年は干害......。 人々は飢えと病で死に絶える者も多かったはず。
なす術もなく銅鐸の民は、さらなる霊力を必要として、どんどん銅鐸を巨大化させていったと思われます。

もちろん他のムラに対する権威づけでもあったでしょう。
もはや音を奏で、天の神に雨乞いすると言う本来の目的ではなくなり、
権威の象徴(見る銅鐸) として、ムラの格式を高める役目に変わっていった。
ムラの格式が高まれば、格式の低いムラから物資を貢がせることもできます。
こうしてムラは少しづつ統合されていったのでしょう。

そんな、限界ギリギリの生活の中で生きながらえてきた銅鐸の民に、
ある決定的な出来事が起こりました。


2世紀末、高い農耕技術を持った人々が、西から次々にやってきたのです。
彼らもまた天候不順により、新天地を求めてでの移動でした。


西の民は銅鐸の民がやっていた農耕とは一線を画し、低湿地に水田を広げました。 それまでの銅鐸の民は、山の斜面に沿って小さな田を作り、傾斜を利用して小川の水を引き込んでイネを栽培すると言う単純なものでした。

画像5


が、西から来た者たちは、平らな低湿地に大きく田を区切り、治水工事により運河を通し、水を 田に流し込むことを知っていました。 
さらに重要なのは、彼らは鉄器を持っていたこと。
銅鐸の民のほとんどは、鉄を知りませんでした。いうまでもなく鉄の農耕具は木製とは、比べ物にならないほど作業がはかどります。

画像5


ちょうどその頃、汽水湖だった大和湖や河内湖が、海退により広大な湿地帯に変わったことが、 西の民をここに定住させた決定打だったのでしょう。
これによって森や林を一から切り開くような過酷な労力など不要となり、水田農耕するのに最適な場所が確保されたのです。
西から来た民にとってはラッキーとしか言いようがありません。

画像6




こうして、西から来た民=原ヤマト政権は、
奈良盆地の一角・纏向の地にクニを築いたと思われます。
となると銅鐸の民は、最初こそ抵抗もあったかもしれませんが、
結局は自らの神を捨ててでも、西の民が崇める 「銅鏡」を祭器とし、日輪を崇め、 彼らの農耕技術を取り入れるしかないと考えたのではないでしょうか。


下の地図は、2世紀前半~3世紀前半の「銅鏡」の出 土状況をあらわしています。
 (国立歴史民俗博物館研究報告 2014年2月)

画像3


2世紀まで銅鏡は、ほとんど北九州の民の宝物でした。
が、2世紀末に大変動が起き、それ以降銅鏡は、九州から消え、大和の古墳から出土するようになります。これは、銅鏡を信奉する九州などの民が東へ移動し、大和の地に本拠地を構えたことを意味しています。
 同時に銅鐸の民は、これまでの信仰に自らの意思で決別しました。
 雨乞いの儀式だけではこの悪天候に太刀打ちできないことを悟ったのでしょう。 “丁寧”に銅鐸を埋葬したのは、このためです。


 ちなみに斜面の中腹に埋めた理由は、おそらく津波の記憶からだと考えられます。 岡村眞高知大特任教授によると、 弥生中期末(紀元前後)に南海トラフで、マグネチュード9.0という巨大地震が発生。
 場所により100メートルをゆうに超える大津波が、弥生の集落に押し寄せました。

 その時も、いっせいに銅鐸は斜面の中腹に埋めた痕跡があるそうです。
それから200年たった今回も、その教訓から彼らは、 津波が届かないくらいの高台に、今まで守ってくれた宝物を丁重に埋葬した、 それが忽然と消滅した銅鐸の真相ではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?