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消えた銅鐸の謎 5

【5】ヤマトを建設したのは誰?
銅鐸の民は、
こうして纏向で興ったヤマト政権のなかに組み込まれていきました。

さて私は、さきほど西から来た民がヤマト政権を築いたと話しました。
が、それは西の民が単純に北九州の一族のことだとは思っていません。
なぜなら、纏向の最古級の前方後円墳(石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳)には、 「銅鏡」が1枚も出土していないのです。
副葬品として銅鏡が出土するのはホケノ山以降の古墳。
九州王の墓だとしたら、これはおかしい。
なので、最古級の前方後円墳の被葬者は、九州の民ではない可能性が高いのです。

では誰か?というと 詳細は省きますが、
これら最古級の古墳には、半世紀前の吉備国でしか見られない いくつかの特徴を持っており、明らかに吉備は原ヤマト政権と深い関連を暗示させます。
   (下図は吉備とヤマトの古墳が酷似している。深い関連を示す証拠のひとつ)

こふん

ここから考えられるのは、
奈良盆地・纏向に定住した西の民とは、まずは吉備の王たちだったのではないかと。その時期は、最古古墳の築造年代から算出して、約西暦200年。

 やがて、20〜30年ほどの後に九州の民がやってきて、銅鏡と日輪信仰を大和にもたらしたのでしょう。
纏向一帯に矢じりなどの戦いの痕跡がないことから、吉備の民も北九州の民も、大きな戦乱はなかったと思います。ほぼ敵対することなく、協力してクニ作りを進めたようです。その証拠に3世紀中頃からの前方後円墳は、吉備・北九州双方の特徴を併せ持つようになります。(厳密に言えば出雲などの特徴も混じり始めますが)

そこでひとつ挙げておきたいことがあります。 今まで私はあえて文献には触れずにこのコラムを語ってきました。
が、この
吉備がまず大和入りして、後から九州勢が入って、共に国づくりをするという構図は、
「すでに大和入りしていた天つ神ニギハヤヒは、地元の土蜘蛛の長・ナガスネヒコらと共に大和の国づくりをしていた。が、後から来た九州の王・神武天皇と会うと、ナガスネヒコを裏切り、神武のもとで国づくりに邁進した」
という「古事記」「日本書紀」の記述にそっくりだと言うこと。

「記紀」に脚色はつきものですが、いきなり神武天皇がヤマト入りして国を建国した、と言わな かったところが、なぜか信憑性を感じていました。
記紀ではニギハヤヒはどこから来た神とは語っていませんが、考古学的に、
ニギハヤヒが吉備の王だったと仮定すると、ピースはピタリとハマるのです。

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そうなると、「記紀」に書かれたニギハヤヒに裏切られた土着の王・ナガスネヒコは、 銅鐸の王であり、神武の敵「土蜘蛛」と呼ばれた一族は、近畿地方に住む銅鐸の民であったと考えていいのではないでしょうか。記紀の中では、鉄を知らない土蜘蛛たちは、神武の持つ鉄剣の光に怯え、軍勢が散り散りになったと書かれています。

ただ、その土蜘蛛たちも、単に支配された奴隷などではなく、 同じく纏向でヤマト政権建設の大切な働き手となっていたようです。
纏向遺跡で出土した土器によると、日本各地から人が集まり、纏向建設に従事したことがわかります。
その中でも、最も多いのが伊勢・東海系。
つまり三遠式銅鐸の勢力地だった人々が、自らの神を捨て、ここ奈良盆地・纏向で働きに来ていたわけです。
このような背景のなかで、ヤマト政権は熟成されていきました。

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