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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【7】ナガスネヒコの正体

出雲。彼らはたしかに大和に来ていました。
纏向での出身地出土土器をみてもしかり、葺石を古墳の側面に敷く築造方法にしてもしかり、「記紀」においてもしかり。記伝では3代天皇までは出雲系の妃を娶っていました。
しかし、
次の図をご覧ください。初期前方後円墳の分布図です。

(白石太一郎著 日本史リブレット4より)

吉備とは対照的に、出雲ではまったく前方後円墳が作られていません。
ヤマトとの同盟の証である前方後円墳。吉備や九州勢と共に纏向で開拓してきた出雲なのに、それが無いとはどういうことでしょう?
ヤマトを拒絶したとしか考えられません。

実際、出雲は独自の路線を歩みました。正確には6世紀になってようやく西部地区において今市大念寺古墳などの前方後円墳が作られるのですが、それまでほとんどが方墳か前方後方墳。かたくなにヤマトに背を向けてきました。
それはなぜでしょう?
ヤマト開闢時に何があったのでしょう?

順を追ってもう一度言います。
かつて同盟を結んでいたのは吉備と出雲でした。両者は大和の地に入り、開拓し始めますが、九州勢力が入ってきてからは袂を分かち、別々の道を辿りました。
これを吉備の視点から言い換えると…

吉備勢力が、出雲勢力を切って九州勢力を選び、ヤマト政権を運営した
これは
ニギハヤヒが、誰かを切ってイワレビコを選び、ヤマト政権を運営した
ことではないか。

日本書紀や先代旧事本紀・古語拾遣には、イワレビコとの戦闘の最中、ニギハヤヒはナガスネヒコを性格が悪いと言って殺した、とあります。あまりに理不尽な殺害理由。
そう。切られた誰かとは、ナガスネヒコのこと。
これは、「出雲勢力=ナガスネヒコ」と捉えるべきではないでしょうか。

なぜニギハヤヒがナガスネヒコを切ったのかは、次に語るとして。
今まで私はナガスネヒコは大和地方の銅鐸族の首長という認識でしたが、どうやら私の推測が誤っていたようです。たしかに、銅鐸祭祀の共同体のムラにそのような軍がいたというのは違和感があり、また壊滅したナガスネヒコ軍はその後どうなったのか?記紀にはほとんど書いていません。
北陸や東北に逃げ延びた一説もありますが、北陸は出雲の勢力圏内であり、整合性はあります。
このように、出雲と吉備が同盟を組んでいた事実をふまえて考えれば、「ナガスネヒコ=出雲勢力」で全てのピースがあてはまるのです。

だとしたら、ヤマト政権はなぜ徹底的に纏向建設から参画した出雲系の存在を隠そうとしたのか?なぜ出雲をナガスネヒコという名の豪族として描いたのか?
大きな謎が残ります。
ただ、いくらヤマトが隠そうとしても、先述した痕跡までは隠せません。三輪山のすぐ裏手に「出雲」という地名まで残しています。

このように出雲勢力は、何らかの理由で、大和進出の道なかばで撤退し、ヤマトとの交流を絶った、と解釈できます。
そして、その事実をヤマトはひた隠しに隠している。

隠さなくてはならない理由はなにか?
次はその謎を検証し、ヤマト政権の闇を明らかにしていきましょう。
                             (つづく)

全10回 **************************************************
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)そして纏向に集まった
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?


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