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KANの普遍的な四枚と五曲

ポップミュージックの、ことアレンジというものは、いつもある時代の縁をなぞるものであって、悲しいかな例外なく古びていく。有り体に言えば、ダサくなっていく。
KANもその例に漏れず、というところがある。その仕事に比してほとんど素朴だと言えるくらい混じり気のないポップソング職人──言い換えれば、一生いい曲書くマン──なので、どのアルバムを聴いてもすごく時代的だなと思う。
そんなKANの音楽だが、ディスコグラフィーを辿ってみると例外的に「普遍的」だといえるアルバムが四枚見つかる。

二枚のライヴアルバムと、二枚のセルフカバーアルバムがそれだ。
ライヴアルバムはピアノ弾き語りという形式で、セルフカバーは本人の編曲によるストリングスカルテット+ピアノ弾き語りの編成になっている。
余計なものをすべて削ぎおとしているのだが、音がポップミュージックとして成立するために必要なものが過不足なく揃っていて、核のような部分だけが抽出されている。選曲においてもベストといえるもので、(特にセルフカバーにおいては)録音もすばらしい。
弾き語りというのが、歌曲、というか音楽のもっとも美しい形態のひとつだと思っている。音楽の、普遍的でありうるような形だと思っている。
巨大なコンサートホールからベッドルームまでに同じかたちであって、たぶん千年前にも千年後にも同じかたちであるうるものだと思うから。

上記の四枚の中に収録されている楽曲のなかから、好きな曲を五曲。


遠くで起きてる戦争は いつ終わるのかもわからない
せめてぼくらはずっと互いを 許し合い生きよう
ぼくは誰とも争わないし 誰を憎む根拠もない
ただ落ち着きを取り戻すため ちらつくテレビを消そう

"世界で一番好きな人"

KANが書いたもののなかで最も美しい曲がこれだと思っている。
歌われていることは全く奇をてらっていなく、今まで何千回も歌われてきたようなことではある。
ただそこに、老いと諦めと、そこにあっても小さな生活を守っていくということが書きこまれていて、それがこの歌を嘘のないものにしていると思う。
特にセルフカバーの『la RINASCENTE』に収録されたヴァージョンは、崇高なまでの美を感じさせる。


まゆみ
たまには大きな声で
さわいだり さけんだり
ぼくにあたったりしてもいいんだよ

決して自分のことせめたりしないで

"まゆみ"

小さくささやかなラブソングで、と書くと、さっきから同じことばかり書いてるな、と思ったりするが、こういう普遍的な歌から夾雑物を削ぎ落して削ぎ落として磨き上げたもの、みたいな作品がこの人の作るものの魅力だろうと改めて感じさせられるような一曲。


平気な顔のぼくの泣きそうな孤独を
ああ 君は知らない

"君が好き 胸が痛い"

平井堅がこの曲を一番好きだと言っていて、それが何かすごく分かる。
シチュエーション的なことは歌のなかに書き込まれていないが、たぶん季節は冬で、待ち合わせのときとか。相手が先に待っているのを見つけて、声をかける前に自分の中の辛さとか疲れとか孤独を隠すっていう、そういう一瞬のことが描かれている。


夜空に流星をみつけるたびに
願いをたくしぼくらはやってきた

"愛は勝つ"

別にこの曲をあえて外すみたいなこともできるし、最初はそうしようかと思っていた。が、今回改めて聴いて、それはないなということになった。
セルフカバーの『la RINASCENTE』に収録されているヴァージョンで曲としてアップデートされていて、この曲の持っている普遍性のようなものが際立って聴こえる。
「一周回って」みたいなことだよな、と思う。今だったらこういうことが正面から歌われていることが逆に違和感がないというか。


秋の夕べに落ち葉が舞うように
ぼくたちも美しく枯れてるかな
50年後も 穏やかに笑ってるかな
今日みたいに

"50年後も"

私の一番好きな歌がこれで、KANの最高傑作だと思っている。
A-B-C-B-C-A-Bというような独特の構成で、一見掴みどころのない曲に思えるのだが、すべてのセクションが美しいためにセクション間に力関係が生じないようになっている。つまり、全部が独立したメロディで、サビとしてありうるような形。それがひとつの曲としてぎりぎり結びついているように聴こえる。
半径十メートルの範囲で、何十年という射程で歌う、みたいなこともKANに通底するテーマだなと感じる。"カレーライス"や"プロポーズ"などでも繰り返し歌われているように。
それとこの曲は"明日の朝もしもぼくが死んでいたら君はどうする?"というフレーズで始まるが、そこに何か、自分が死んだあとも音楽は残る、という確信が静かに織り込まれているように感じる。


いまはKANの音楽をあまり穏やかに聴けるような心持ちにはなれず、寂しいことだが、そういうものが薄れていって音楽が単に音楽として聴けるようになったときに、これらの歌の普遍性が本当の意味で立ちあがってくるのかもしれない。作り手の不在を乗り越えたときに作品が初めて放つ輝きのことを普遍性と呼んでみることもできる。
音楽がそのように聴けることを今は待とうと思う。
静かに惜しみつつ。



そういえばKANが"世界でいちばん好きな人"のカップリングでスピッツの"チェリー"をカバーしていたことがあった。
無数にカバーされている曲ではあるが、このタイミングで聴いてみるとはっとさせられる言葉が多くて驚く。喪失や不在をこういうふうにも捉えることができるんだ、と。


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