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『かっこつける』ことと『かっこいい』ことは似て非なるものである。

丸二日ほど寝込んでしまった。よくあるのだけれど。
天気のせいもあるけれど、こういうときは自分の中の何者かが
何かを伝えてこようとしている。

わたしの最近のテーマとして
『かっこつける』のと『かっこいい』のは違うんじゃないか
そして、わたしはかっこいいのが好きだから
かっこつけるひとを兎角嫌っていた自分に気がついた。

この記事とだいぶ似通ったところはあるのだけれど
もう少しわかりやすい言葉になってきた気がする。

私は自分の中に男性的な強い部分があることを自覚している。
でも、それをひた隠しにしたい気持ちが大きかった。
それは、かっこつけているひとと混ぜてみられるのが嫌だったからだ。

それは、ある意味防衛本能だろうと思う。
かっこいいことを見せることで不具合が多いことがあったのだろう。
男性から妬まれたり、女性から怖いと言われたり理由は様々だ。

でも、それは自分が自分に言いきかせていた幻聴に過ぎない。
自己受容をしていく中で最難関レベルで難しかった部分だと思う。

女性に生まれて『かっこいい部分』を認めるのは容易ではない。
男性に生まれて『弱い部分』を認めるのが容易でないのと同じことだ。

年をとれば、女性は強いということが許されていくような気がする。
年齢ということを隠れ蓑にしてはじめは認めるのもいいのかもしれない。

わたしは20代の頃にパンクな恰好をしていた。
周りにそういう人が多かったし、そういう方が色々都合がよかった。
『かっこつけさせられている』という感覚に疑問を持っていた。

自分の中の『かっこよさ』を自覚していないときは
かっこいい服が似合う自分が嫌いだった。
どんなに激しい恰好しても、なんとなく見栄えてしまうのは
きっと顔立ちのせいだろうと思っていた。

実際は違ったのだ。赤い服を着ても似合っていたのは
自分の中にそれなりの気性の粗さがあったからだ。

そもそも、わたしたちの魂は光、肉体は闇の存在だ。
光と闇はすべての要素を持ち合わせているということが共通している。

それなのに『かっこつけてる自分』を散々否定した。
『かっこいい自分』も散々否定していた。どでかい要素を無視していた。
それでずっと自分に対して気分が悪かった。

光と闇の存在は素直なもので、自分の存在を否定すると抵抗する。
体調が悪くなったり、不運を起こしたりして本来の自分に戻れと警告する。

派手にかっこつけるのだって自分の一部分だと自覚したときに
体調が一気に回復した。ほんとにこの経験は何度味わってもたまらない。
自分に力が戻ってきたようなこの感覚。自由というに相応しい。

これからまた、人生が楽しくなりそうな気がしている。
人生は自分を受け入れていくというシンプルなルールに従って動いている。


最後までお読みいただきありがとうございます、今日もいいことありますよ!