見出し画像

正直に言うと(5月エッセイ③)

 頑張っているから応援するという言葉を真に受けると、頑張っていないなら応援しないということになるし、頑張っている人は誰でも応援するし、応援しない=頑張っているつもりかもしれないが、私はあなたの頑張りを否定しますということになるのではないかと思う。

 スポーツ選手でもミュージシャンでも芸人さんやアイドルでも、頑張っているから応援する、したくなるというのはよく聞く。でも正直どんなジャンルであっても、“頑張っている”なんて当たり前のことじゃないかと思う。頑張っている基準自体あやふやなもので、血の滲むような努力というのは抽象的だし、睡眠時間を削ったからといって良いものが見られる、まぁ中身は置いといても、頑張っている、だから応援するという構図は的外れなものに思える。
 応援に結びつくとしたら、パフォーマンスに圧倒されるからとか、とにかく面白くてワクワクするから、楽しいから、中身に付随する熱量といったもっと単純でものすごいパワーそのものだと思う。そのパワーに突き動かされて、ついチケットやグッズに手が伸び、会場に足を運び、出演するメディアをくまなくチェックする。ただ自分自身が魅了され、目が離せなくなって、気づいたら応援している。
 頑張っている姿に胸を打たれても、継続的に応援しようとはならない気がするし、でも頑張っているのは備わっていて当たり前という意識があるから、パフォーマンスに胸を打たれても、やる気を感じなかったら冷める。

 頑張っているから応援するんじゃなくて、応援されているから頑張るとパフォーマンスをする側が言うなら分かる。内容自体は全く評価できるものじゃないのに、『だって頑張ってるじゃないか』と言う行為には、むしろリスペクトなんかなくて、あわれんで馬鹿にしているような趣すら感じる。

 傍目から見て頑張っていない人に「もっと頑張れよ」なんて言うつもりもないし、頑張ってるけど中身が伴ってこないものに対して「頑張ってるだけじゃ意味ないんだよ」とかそんなキツい言葉をかけるつもりも全くない。頑張れない時もあれば、頑張っても芽が出ない期間は誰しもある。
 ただ頑張っているから応援するという言葉の先にある何となく気味の悪いものが気になって仕方ない。
 応援するという言葉自体、定義が曖昧だけど、頑張っているから応援するということに限って言うと、頑張っているだけでお金を落としたり、プレゼントをあげたりするということに違和感を覚える

 なぜこんなことをいきなり書き始めるかというと、自分が今絶賛頑張り中だからだ。頑張っているという事実にかまけていると、頑張ったからという理由ですぐに自分を甘やかしてしまう。頑張るというのは目的のための手段であって、目的そのものではない。小説を書きあげる、資格に合格することのための頑張りであり、ネタを考える、勉強をするだけで止まってはいけない。しかも目的すらも通過点であり、その先を常に見据えていなくてはいけないと思う。
 これだけ頑張ったから、無理したから、色々なものを犠牲にしたから、何の言い訳も抜きにして、結果にこだわる姿勢が足りない自分が情けない。自分が抱えたフラストレーションを外に向けるしかなくなっている。もっと頑張れよ。

ここから先は

0字

¥ 300

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?