死者の女神

 遠方から大地を揺らす砲声をお供に、乗り心地が最悪なトラックの荷台で揺られること数日。俺は故郷から遠く離れ、内地でも地獄と噂される東方へと配属され移動している。軍学校の訓練課程を修了してすらいない俺ですら、引きずり出される祖国の惨状に酷く絶望しつつ、輸送されている訳なのだが。
 とうとう訓練中の予備兵力すら根こそぎ引っ張り出し、前線へ投入するに至った祖国の惨状に加え、内地には地獄でお馴染み東方戦線への配属と来た日には、悲観するなというのは無理な話だろう。
 今直ぐに故郷に帰りたい。そんな気持ちが胸いっぱいに広がるが、そんな駄々を捏ねた所で良くて収容所送り、悪くてその場で銃殺だろう。まして、両者とも重労働の末に野垂れ死ぬか、戦場で人知れず野垂れ死ぬかの違いしかない以上、やるしかないのだ。そう、トラックに揺られたここ数日の間、幾度となく自分を鼓舞してきた。
 だが、怖いものは怖い。
 しかし、時は非常なり。甘えた自分に、現実とやらは覚悟を決めるまでの猶予すら、与えてはくれないらしい。
「降りろ」
 トラックが停車したのと同時に運転席から聞こえて来る冷淡な命令。銅像の様に重たい身体を無理やりに動かして下りると、数多の兵が頻りに辺りを走り回っている。
 どこへ行けとも命じられる訳でもなく、トラックから降ろされた俺と他数十名の補充兵達。ただ茫然と、その場に立ち尽くしていると一人の男が走って来た。
「よぉ坊主共。地獄へようこそ!」
 大声で歓迎してくれる髭を乱雑に伸ばし、伸びきった髪を頭の後ろで束ねた初老の男。
 咄嗟に階級章に目をやり、敬礼して見せる。
「敬礼なていらねぇよ。お前らの配属はあっちだ、さっさと行け!」
 怒鳴る様に指差されたた天幕へと移動する補充兵。彼らに続いて自分も移動しようとするが、男に引き留められる。
「おっと、お前さんは俺と来い」
 何故俺が? と、疑問が浮かぶが、彼が左腕に身に着けた腕章がその答えを教えてくれた。
 白い布に赤い十字が刻まれた腕章。彼は俺と同じ衛生兵だ。
「俺はヴォルフだ。坊主。さっそくで悪いが、人手が足りん。付いてこい」
 そう言い、足早に走り出すヴォルフの背中を追いかけつつ、自分の名前を名乗る。
「坊主ではありません。ハンス・シュミット衛生科、学生であります!」
「そうか坊主、ここに配属されるたぁお前さんも運が無いな!」
「まったくです……」
  ガハハ、と勝気に笑うヴォルフに、俺はただ苦笑で返す事が生精一杯だった。
 移動の間、天幕の隙間から見える戦闘の様子を眺めると断続的に一瞬の光が灯り、消えてゆく。あの一瞬。たった一瞬の間にどれ程の命が失われているのだろうか、と。そんな疑問が頭を過る。あの光に巻かれ消えているのは祖国に仇なす〝敵〟であると、頭では理解しているし、幾度となくそう教育された。敵は殺せ、と。単純明快で、とても分かりやく。
 しかし、眼前に見えるその光景を見て尚も……。いや、その光景を見たからこそ、だろうか。切に思うのだ。人など殺したくない、と。
 それ故に俺は今、衛生兵として此処にいる。眼前で行われている行為を見ることでようやく、腹を括る事が出来た気がする。
 一人でも多くの人を助けたい。その為に、出来ることを全力で行なうのだ。
「そういや、言い忘れてたが坊主」
 そんな物思いに更けていると、ヴォルフが神妙な声音で話し出す。
「どうしました?」
 何か、とても大事な事を言おうとしているのだろう。そんな雰囲気が声音から犇々と伝わって来た俺は、砲声鳴り響く中、絶対に聞き逃すまいと集中する。
「絶対に吐くな」
「……え?」
 絶句。そんなことは当たり前だ。
「んだよ、鳩がマシンガン食らったみたいな顔しやがって」
「いえ……。もちろん、心得ています」
 正直、気が抜けたと言えばそうなのだろう。一瞬にして、それまでの緊張がほどけた。
「それと、マシンガンではなく豆鉄砲です」
 ついでに間違いを指摘してみると、面倒臭そうにチッと舌打ちをされてしまった。
「どっちでもいい。どっちにしろ俺が治すから関係ねぇ」
 人と動物では根本的に色々違う様な……、等と気の抜けた思考を巡らせている内にヴォルフが足を止めた。どうやら目的地に着いたらしい。
 絶え間なく聞こえる怒号と悲鳴。緊迫した空気に、硝煙の臭いに混じる鉄の香り。俺の緩んだ気は、周囲の環境によって一瞬にして引き締められた。
 複数の天幕が密集し、その全てに赤い十字が刻まれている。此処が、此処こそが俺の全力を尽くすべき、戦場なのだ。
「坊主、気ぃ引き締めろ」
 先ほどまでとは違い、ヴォルフは鋭い視線で俺を睨みつけ、冷たい声で告げた。その凄まじいまでの気迫。この先は一分一秒の時間が人の生き死にを決めるという事、ただ一つのミスも許されないという事を再び肝に銘じる。
 先行する彼に続き天幕の中へと踏み込むと同時に、とある怒号が耳に入る。
「触るんじゃぇクソアマが!」
 声のする方へ視線を向けると、腹を真紅に染めた兵士が一人の少女を突き飛ばしていた。
 負傷兵が衛生兵を突き飛ばすなんて話、聞いたことが無い。突然の光景に頭が追い付かずに混乱していると、すぐさま近場の看護婦が男の治療を引き継いだ。
「こっちだ、早く来い!」
 少し離れた場所から聞こえて来るヴォルフの叫び声で我に返り彼の元へ急ぐ。
「ぼんやりすんじゃねぇっ! そこ押さえろ!」
 言われたままに、男の足を覆う真っ赤なタオルを力の限り押さえつける。
「チッ、弾が残ってやがるな……。痛むぞ、歯ぁ噛みしめろっ」
 そう言い彼は負傷兵の口にタオルを押し込み、止血帯で力いっぱいに足を締め上げる。
 男が放つ断末魔の叫びと呼ぶに相応しい程の叫び声に、鼓膜が破れたと思うほどに耳が痛むも全力で患部を押さえ続ける。
「弾抜くぞ。坊主、モルヒネだ! 打てるな⁉」
 即座に返事を返し、医療ポーチから使い捨ての注射器を取り出して腕に注射し、少し待つ。すると、患者の表情が少し和らぎ、呼吸が安定したのを確認したヴォルフが患部を切開し体内に入り込んだ弾丸を取り出し、傷口の縫合を行った。
 手際の速さを内心で称賛しつつ、縫合は終了すると同時にどっと疲労感が押し寄せて来る。大した事はしていない、自分でも分かってはいるのだ。
 しかし、話で聞く事と現場で体験する事には大きな違いがある。頭で思っていた以上に、精神的な負荷が大きかったのだろうか……。
 そこから先は、あまり記憶に残っていない。無我夢中……。そう、無我夢中だったのだ。
 気が付いた時には、天幕の外で吐いていた。
「吐くんじぇねぇって言っただろうが。大丈夫か?」
 全力で胃の内容物をぶちまける俺の背中を、ヴォルフ溜息を吐きつつも摩ってくれる。
「最初はそんなもんだ。外で吐けたなら上等な方さ」
 返事が出来ない俺にそう告げるヴォルフ。
 その言い方だと、天幕の中で吐いた奴が居たってことだよな……?
「はぁ……はぁ……。すみません、もう大丈夫です……」
「無理すんじゃねぇ。ほらっ」
 自力で立ち上がろうとすると、彼に半ば強引に肩を組まされた。
「休憩所まで案内してやるから、大人しくしてろ」
 そう言われ、俺は大人しく彼の好意に甘えることにし、肩を組み拙い足取りで歩き出す。
 移動している最中に改めてヴォルフを見ると、腕章は血と泥に塗れ元の純白の欠片も残っておらず、軍服も全体的に黒ずんでいる。
 反対に、自分の腕章は純白で綺麗な状態を未だ保っていた。彼はこれまで、一体どれだけの命を救ってきたのだろうか? 自分も彼の様になれるのだろうか。
 そんな思いを抱きながら辺りを見回すと、遺体安置所の近くを通った際、負傷兵に突き飛ばされていた衛生兵を見つけた。よく見ると幼く、自分より年下であることが見て取れる。何か、ぼそぼそと呟く彼女を見て疑問に思っていた時、彼女がその場から離れ、その陰に隠れたソレが見えてしまった。
 俺の異変に気が付いたヴォルフが、どこか含みのある口調で話しだす。
「嬢ちゃんには関わらん方がいい。ありゃあ、死に神だ」
 どういう事か理解できずに、移動する少女を視線で追いかけていると、何やら看護婦と話している。
「嬢ちゃんが治療した患者は、皆死ぬんだ。まぁ、極偶に生き残る奴もいるがな」
 そう話すヴォルフだが、少女と話す看護婦はそんな死に神と話している様には、とても見えなかった。
 
 その日の夜は、なかなか眠る事が出来なかった。
 昼には常に鳴り響いていた砲声はすっかり静まり、静寂を取り戻した世界と睡眠を貪りたい所だが、どうにも腑に落ちない。
 死神とやらについて、幾人かの兵士に聞いてみたのだ。すると、どうだろう。全員が全員、アバズレだの、さっさとクタバレだの、罵詈雑言の荒らしだったのだ。
 曰く、アイツに魅入られると必ず死ぬ、と。根拠の乏しい話が兵士の間に広がっているらしい。
 通常、兵士に死に神と目されるのは優秀な敵部隊や敵のエースパイロットなど、敵なのだ。何故、友軍であり兵士を助ける存在の衛生兵が、死に神とまで呼ばれるのかが分からない。
 それ程までに治療が下手なのかとも思ったが、どうもそうではないらしい。
 どうにも、数名の衛生兵に話を聞くと彼女の評価が高いのだ。
 何故? と聞いてみたが皆口を閉ざしてしまう。まったくもって訳が分かたない。
 何故、と。寝台に身を託し考え続けるが、答えは出ず。間も無く、睡魔に意識を刈り取られた。
 そして翌日、聞き慣れない音で目を覚ますと周りがとても騒がしい。まぁ、これが前線の日常なのだろう、と。回らない頭で考えて身を起こすが、どうにも違うみたいだ。
「敵襲! 敵襲!」
「壕へ急げ!」
 悲鳴にも似た叫び声が聞こえ、ただ事ではないと天幕から出ると同時に大量の砲火が空に向けて打ち上げられる。一瞬にして空が曳光弾で染まり、遥か上空から聞こえて来る咆哮。
 上空を見上げると同時に、俺の視界は爆音と共に黒に覆われた。

「まだ息があるぞ! 大丈夫か⁉」
 頭が痛い。視界が歪んで前が見えない。
「衛生兵! 早く来てくれッ!」
 誰かの声が聞こえて来るが、なんて言っているのかが聞き取れない。
「おいおい、嘘だろ。坊主……」
 聞き覚えのある声。
「しっかりしろ、クソッ!」
 徐々にはっきりする視界。ヴォルフの必死な顔が見える。起き上がろうとするが上手くいかない。
「おい! そいつはもうだめだ。諦めろ」
「畜生ッ!」
おい、何処に行くんだヴォルフ。待ってくれ!
 というか、緊急事態なら俺も働かないと、そうだろ。クソッ、起き上がれない。どうなっているんだ。
誰か……。
 寒い。
「だ……、れ。……ぁ」
 クソッ上手く喋れない。誰か、俺はどうなってるんだ。誰か! 誰かぁ……。
 寒い……。怖い……。
 俺はここで死ぬのか? 誰にも知れずに、一人で。誰か教えてくれ!
その時、見覚えのある少女が薄れる視界の中で見えた。
なるほど、死に神か。
「大丈夫。私が看取ってあげる」
 最後に聞き取れたのは、その言葉だった。
 完全に目が見えない。
 そんな状態で、最後の力を振り絞って手を動かす。
 すると、微かな温もりが手を覆った。
 彼女が治療したから死ぬのではない。
彼女が死に逝く者の最後を見とる。その役目を背負っているのだ。
誰が好き好んで、死ぬと分かり切った者を治療したがるのだろうか? 一人寂しく死ぬ。そんな悲しい最後は嫌だと、誰もが思う筈だ。
 なるほど、死に神も悪くない……。

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