ファッキン・デスパレイト!
「え」
ももこは口をあんぐりと開き、目の前で顔を真っ赤にして俯く少女を見た。目の前の少女は……由比鶴乃は、「だから」と蚊の鳴くような声で繰り返す。
「わたし……やちよのこと、好き、なんだと思う」
「……マジか」
「うん」
ももこはしばらく目をパチパチとさせていたが、やがて腕を組んだ。落ち着いたように見えるのはポーズだけだ。彼女の頭の中では、やはりそうかという納得と、まさかそうとはという驚愕、すなわち相反するふたつの感情があった。
鶴乃の恋する相手が、あの七海やちよ。一方は常に学年トップの成績で先生からの評判も良く、学校内に隠れファンクラブができるほどの秀才。もう一方もまた在学時はトップとは行かずとも常に学年順位1桁をキープ、モデルなので公式ファンクラブも持っている。魔法少女としても、二人の強さは一般的な魔法少女からすれば災害級だ。これほどまでに釣り合っているカップルも中々いないだろう。いないだろうが、まさか、あの由比鶴乃が恋とは! 十咎ももこが驚愕したのはその部分だった。
彼女の中にあった鶴乃のイメージは、その辺りの都会を神聖視していそうな女子と違って、惚れた腫れたには目もくれず、ただひたすら最強を求める少女といったものだった。だが、鶴乃とて人間なのだ。恋をすることもあろう。あの歩くだけで年下を誑かすと有名な七海やちよと行動していれば余計に……。イメージを改めねばなるまい。ももこは反省した。
色々と言いたいことはあるが、まずは。ももこは最大の懸念に焦点を当てた。
「あのな、鶴乃」
「うん」
「ここ、相談事には向かないな」
ももこは鬼門の方角を指差した。そこには、ニコニコと笑みを浮かべるこの建物のあるじ……神浜市の調整屋……八雲みたまの姿があった。
複雑な神秘的模様が描かれたステンドグラスからは、青く差し込む日差しが柔らかに屋内を照らす。もう少し俯瞰すれば、そこは廃墟となった場所であり、周囲に人の気配がないことがわかる。ここは廃墟内に作られた、魔法少女専門に商売を行う調整屋。従業員はただ一人、八雲みたまだ。
ファッキン・デスパレイト!
「そう。鶴乃ちゃんはやちよさんのことが好きなのねぇ」
みたまは心底楽しそうに言った。今にも歌いだしそうな声音だ。
「そんなに他人の恋が楽しいか?」
「楽しいわよ!」
呆れたように尋ねるももこに、みたまは当然のように返す。
「それも、今回の主役は鶴乃ちゃんとあのやちよさん……! ドラマティックじゃない?」
「そりゃそうだけど……鶴乃はなんでここを相談場所に選んだんだ……」
「だって、みたまならきっと他の人に喋らないし!」
「まあっ、鶴乃ちゃんったら本当にいい子! 調整屋さん全力で協力しちゃう!」
みたまは鶴乃を後ろから抱きしめて、大型犬に対してするように頭を撫で回す。「髪ぐちゃぐちゃになるー!」という悲鳴もどこ吹く風だ。
「いいのか? 調整屋は原則中立だろ?」
「ももこってば何言ってるの? 調整屋さんが中立なのは、魔法少女に対してだけ……恋する女の子に対しては、もう思いっきり偏っちゃう!」
「そーですか」
本当に楽しそうだな、とももこは心の中で呟いた。とはいえ、鶴乃を応援したいのは彼女自身も同じ気持ちである。犬猿の仲だとからかわれたことも過去にはあったが、別に鶴乃のことは嫌いではないし、大切な友達だ。恋が報われて幸せに笑っている友達を見るのも、悪くないだろう。
「けどさ、やちよさん側は鶴乃のことどう思ってるんだ?」
乱れた髪型を直す鶴乃に対してももこが問いかけた。考え始めた鶴乃の代わりにみたまが返事をする。
「悪く思ってはいないと思うわよ。じゃなきゃあんなに邪険に扱わないもの」
「まあわかるけど……普通逆だよな」
「やちよさんは天の邪鬼だものね」
二人はお互いに納得を共有するように頷きあった。もしやちよが鶴乃のことを嫌いだったならば、邪険に扱うまでもなく決定的に突き放しているだろう。邪険に扱いながらも仲間として長いこと共に戦っているということは、即ち気に入られているということの何よりの根拠となろう。しかし鶴乃はブンブンと腕を振って不満を示した。
「でも、悪く思われてないくらいじゃなくて、すっごく良く思われたいの!」
「つ、鶴乃がいっぱしの女の子みたいなことを……!」
ももこは反射的に驚愕してしまった。つい先程鶴乃も恋をする人間だと理解したとはいえ、未だ以前までの由比鶴乃観が抜けきっていないのだ。
「もう、ももこ?」
みたまがももこの頬を人差し指で突いた。「悪い、つい……」とももこは頭を下げる。
「……でも」
鶴乃はしゅんとして俯いてしまう。
「やちよには、今はいろはちゃんがいるから……」
「あぁ……」
ももこの口から声が漏れる。
「確かにあの二人、最近もっと仲良くなったものねぇ」
みたまは頬に手を当てて考える様子を見せた。ももこが食いつく。
「え、やっぱりあの二人付き合ってたのか?」
「やっぱり……?」
普段聞かない低い声にびくりとして、ももこはそちらを向いた。すると、鶴乃がこちらに対して非難がましい視線を向けているのが視界に入る。ももこは弁明しようと両手を振って、何も浮かばずに手を下ろした。
「実は、アタシもちょっと怪しいと思ってて……」
「ちょっと、私を巻き込まないでくれる?」
「もっと仲良くなったって言ったの調整屋だろ?」
「私はそう言っただけで、付き合ってるなんて言ってないわよ」
「紛らわしいな!」
「ももこが勝手に勘違いしたんじゃない」
「でも、勘違いじゃないかも」
険悪になり始めた二人の空気を、暗い声が割った。そちらを見やれば、鶴乃はすっかりしょぼくれてしまっている。
「やちよって人気だから……結局わたしが入れる隙間なんて……」
「よしよし。そんなことないわよ」
みたまが慰めるように鶴乃の頭を撫でながら、責めるようにももこを睨んだ。ももこはバツが悪くなって目を逸らす。
「ううん……あんまり他人の調整中のことは言いたくないんだけど……」
みたまはもごもごと呟いた。鶴乃が顔を上げ、みたまはその棄てられた犬のような目を見てしまい、観念して話し始める。
「時々、調整中に記憶が見えちゃうことがあるってことは知ってるわよね?」
「うん……」
「そういうときに見える記憶って、強い印象のある記憶……例えば、良いものか悪いものかに関わらず、親友とか恋人と一緒にいるときのものが多いの。やちよさんの記憶には、確かにいろはちゃんが出てくることもあるけど……恋人らしいことをしてるのは見たことないわ」
「強い印象があっても、確実に見えるわけじゃないんだよな?」
ももこが確認する。みたまは曖昧に頷く。
「そうだけど、いろはちゃんの記憶でもそれらしきものは見たことないわよ」
「隠してるって線は?」
「調整はリラックスしながら行う、これが鉄則よ。隠し事してやるって気持ちで来られても、こっちもうまく調整できないわ。それに……」
みたまはそこで一拍置いた。ももこは訝しげに目を眇める。
「やちよさんならともかく、あの純粋ないろはちゃんが隠し事なんてできるはずないもの。それも、この調整屋さんに対してなんて」
出てきたのは自慢だった。待つ時間分損した。ももこは鼻で笑いながら「大した自信だな」とぼやく。みたまはももこを意味ありげに見やる。
「ちなみに、ももこが隠してることだって私には筒抜けよ」
「……なんのことだか」
ももこは肩を竦めた。動揺を表に出さないように注意しながら。こんな思考すらも調整屋には筒抜けか。
「とにかく、確約はできないけど安心して。鶴乃ちゃんにも希望はあるんだから!」
みたまが鶴乃の両肩に手を置く。鶴乃の表情は先程よりも回復したが、未だ不安の色は消えていない。確約もない慰めの言葉だけで安心できるほど、浅い悩みでもないのだろう。ももこは深く息を吐き、膝を叩いた。
「よしっ! アタシがそれとなく聞いてやる」
「「え?」」
鶴乃とみたまの声が重なった。ももこは自分の臆病風も吹き飛ばすように勢い良く立ち上がる。
「鶴乃は、まあ、友達だからな。アタシにできることなら、このくらいは……さ」
「きゃーっ! ももこかっこいーっ!」
「茶化すな!」
鶴乃はじっとももこを見上げていた。そして、やおら頭を下げた。
「ありがとう」
「よせって! そういうのは!」
痒そうな顔をしながらももこは頭を上げさせる。「美しい友情ねぇ」と呟きながら、みたまはももこに心配そうな視線を向ける。
「大丈夫なの? ももこ、そういうの苦手そうじゃない」
「大丈夫だって! これでもアタシはレナとかえでのリーダーとして、結構長くやってきたんだからな!」
ももこは胸を張った。その胸は豊満である。あー、とみたまの口から声が漏れた。その声は未来を察した諦めゆえのものだ。しかし彼女は食い下がろうという素振りすら見せず、ただももこたちを眺めていた。それはひとえに、面白いことになりそうだったからである。
◆◆◆◆◆
「何か話したいことがあるんでしょう?」
「え」
夕暮れに染まる神浜市。東から迫る夜に呼応するように、陰に潜む闇が活動を始める時間。すなわち、それは魔法少女の時間でもある。ひとけのない暗い道を二人の少女が歩く……否、歩いていた。現在は一方……十咎ももこが立ち止まっている。もう一方……七海やちよはペースを落として歩いている。
「だから二人きりの魔女退治……それもひとけのない場所のパトロール……に誘ったんでしょう?」
「……いや……ははは」
ももこは早足で追いつきながら、魔女の気配もないのに冷や汗をダラダラと流していた。
やちよに色々聞いてみせると約束した日の夕方、ももこはやちよをパトロールに誘った。彼女はじっと待つ性分ではなかったし、鶴乃のことも気がかりだった。ずるずると引き伸ばしたまま来週にでもなったら、鶴乃はその間まんじりともせず夜を過ごすことになるかもしれない。
だが、その焦りが裏目に出た。そもそも昔であればいざ知らず、現在のももこがレナとかえでを放ってやちよと二人きりなど、その時点で怪しむには充分なのだ……!
「その……なんていうか……」
ももこはニューロンを高速回転させる。鶴乃のことをどのように思っているか尋ねるか? あまりにも怪しすぎる上に、鶴乃がやちよを想っていることがバレてしまう! いろはとの関係はどうなのかを尋ねる? 怪しいという点では同じだ! いっそ話を逸らす? 怪しさがまったく変わらない!
(アタシ自身の相談事をする……それしかない……!)
ももこは覚悟を決めた。鶴乃にはもう少し時間がかかると謝ろう。今はこの場を乗り切ることだけを。
「あー……鶴乃のことってどう思う?」
口に出した瞬間、ももこは強い衝撃に襲われた。自分がしたことの恐ろしさ、その衝撃に。なんたることか……! 彼女は直前で鶴乃のことを考えてしまった。それが彼女自身意識せぬうちにニューロンを伝い、口から発せられてしまったのだ……! 噫……なんたる悲劇……!
「鶴乃を?」
やちよは振り向いてももこを見た。ももこは青褪め、金魚めいて口をパクパクとさせ、その目は地球儀めいた物凄い勢いで動いている。その光景をどのように解釈したか、やちよは得心したように頷き、ももこの肩を叩いた。
「そう、あなたはてっきりみたまだと思ってたけど……」
「調整屋……?」
やちよの謎めいた言葉に、ももこは鸚鵡返しするのが精一杯だ。だが同時に、何かがおかしいぞという意識もまた頭の片隅に生まれ始めている。
「安心しなさい。別に鶴乃のことを取ったりしないわ」
その言葉の意味を理解するのに、ももこはたっぷり10秒を要した。これが魔女との戦いの最中であったならば死んでいてもおかしくない隙である。
「は、はは」
やがて理解したももこの口から漏れ出したのは、乾いた笑いだった。感情が追いついていないのだ。やちよは振り返り、再び歩き始める。先程までと異なり、スキップでも始めそうな足取りだ。
「それにしても、ちょっとした犬猿の仲だと思ってたけど……。そう、ももこが鶴乃を。ふふっ」
「は、ははは」
ももこは追いついた感情の中考えた。果たしてこの事態は良いものなのだろうかと。鶴乃の想いを隠すことには成功した。しかし、神浜市の歪みの巨大さにも匹敵する勘違いを生んでしまった。
「はは、はははは」
壊れたアンドロイドのように笑いながら、ももこはやちよの後ろを歩いた。その様子に何を勘違いしたのか、やちよもまた楽しそうに含み笑いを漏らしていた。その日のパトロールにおいて魔女は現れず、彼女たちは大きなすれ違いを抱えたままみかづき荘に戻り、解散した。
◆◆◆◆◆
「すまん!」
「ごめんじゃないよ!」
同日、夜。両手を合わせて頭を下げるももこに対して、鶴乃は激昂した。
「バレバレに決まってるじゃん! 何……何あれ!? 何なの!?」
「いや……アタシにもわからなくて……」
「わからなくってじゃなくって……!」
「そ、そんなに怒ることないだろ!」
ももこの反撃! 鶴乃は一歩も退かぬ!
「ただちょっとした勘違いをされただけじゃんか!」
「どうするの、これでやちよがやけにももことくっつけようとしてきたら!」
「気にしなきゃいい!」
「気にするでしょ!」
「だから……!」
「はいはい、そこまでよぉ」
一触即発の二人の頭に布が被せられる。それは魔力伝導性の高い素材で編まれており、角度によっては空気中の魔力を反射かつ可視化し、たとえ夜であっても超自然の煌めきを発する。
「営業妨害よ。もし続けるなら、このまま魔力を流し込んじゃうんだから」
いかに魔力伝導性が高かろうとも、魔力さえ流れていなければそれは単なる布である。そのはずなのに、二人にはやけに重く感じられた。二人が黙ったのを確認して、みたまは布を二人からどける。
「調整屋の中で騒ぐのはめっ、よ。起こっちゃったものはしょうがないんだから。それにももこの失敗からだって得たものはあったわ」
二人は不貞腐れた表情でみたまを見た。みたまは鶴乃を気遣わしげに一瞥し、慎重に口を開く。
「あんまり良い情報でもないけれど……。ももこ、あなたは勘違いとはいえ鶴乃ちゃんとの恋を応援されたのよね?」
「そうだけど……あ」
「やちよさんはももこと鶴乃ちゃんの恋路を応援できる。つまりそれって、鶴乃ちゃんのことをなんとも思ってないってことにならない?」
言い切らぬ内に、糸が切れたように鶴乃が崩れ落ちた。間一髪、ももこが下になって受け止める。
「鶴乃ー! しっかりしろ鶴乃ー!」
ももこは鶴乃を揺さぶった。鶴乃の瞳からはまるで生気が感じられない。死体と言われれば誰もが信じるだろう。ももこはハッとして、慌ててソウルジェムを確認する。……光り輝いている。ももこは首を傾げた。
「一時的なショックよ、すぐに良くなると思うわ。いちいちこんなことで濁ってたらたまらないでしょう?」
みたまの言葉に、ももこは頷きかけ、やはり納得できず首を傾げた。みたまは鶴乃を申し訳なさそうな目で見下ろす。
「ももこはお手柄だけど、鶴乃ちゃんにはちょっと残酷すぎたわね……」
「どうするか……。応援するにしても、なんとも思われてないんじゃな……」
二人は黙りこくった。鶴乃は生気を失ったまま動かない。気まずい沈黙が流れ、外のフクロウの鳴き声が建物内にクリアに響いた。おお……このまま鶴乃の恋路応援会は解散してしまうのか? 鶴乃は己の想いを伝えることなく、このまま死んだように生きるしかないのであろうか?
「決まっている!」
その時である! 堂々たる澄んだ声と共に、調整屋のドアが勢い良く開かれた! ももこは反射的にそちらを向き、あまりの眩しさに目を細めた。読者の皆様もご覧になっているはずである、闖入者が放つ神々しき後光を。しかしそれは錯覚だ。
「ここで諦めるなど、何を馬鹿げたことを考えている。八雲、神浜を滅ぼすと決めたときのハングリー精神を思い出せ」
「…………!」
みたまは感銘を受けたように胸を押さえる。
「意識されていない? ならば振り向かせれば良い。簡単なことだ。魔法少女が揃っているというのに不甲斐ないぞ!」
「いや、この問題に魔法少女は関係ないだろ……」
後光が薄れ、ももこはエントリーした少女を直視できるようになった。大東の黒い制服、白鳥が如き白い髪。神浜市の東側を統べる魔法少女、和泉十七夜!
「そうね。さすがは十七夜、いいこと言うわぁ!」
先程までの沈んだ様子はどこへやら、みたまは嬉しそうに手を合わせた。ももこは不満げに見つめながら、「つーか、誰も話の流れ知られてることには何も思わないのかよ」とぼやく。
「でも、振り向かせるなんて……わたし、強いくらいしか……」
「強いけど自分で言うかそれ」
「まさに、その強さが重要だ」
鶴乃が吐いた弱音を、十七夜は即座に拾い上げる。
「更に強くなればいい。女は強い女を想うものだ」
「あらやだ十七夜、それは古い考え方よ」
「む……そうなのか?」
十七夜は目を見開いた。みたまは考える様子を見せながら頷く。
「そうよ。それにやちよさんは強いから、自分より強い人がいたら頼もしいかもしれないけど……好きになる、とはまた別かもしれないわね」
「七海は難しいな……」
虎の子の意見を却下された十七夜は沈んでしまった。みたまは元気づけるように腕に触れる。
「難しくなんかないわ、簡単よ」
やけに自信のある口調だった。ももこの魔法少女第六感が警告を発する。
「おい、まさか……」
「やちよさんを掴むには、まず胃袋からよ!」
「そうなのか!」
みたまの断言を十七夜は素直に信じた。実際、七海やちよは一般的な同年代の女よりも食い意地が張っている。対象の特性に合わせた良い作戦と言えるだろう。……通常ならば、だが。ここにいるのがあらゆる中華料理を50点にする能力を持つ少女と、あらゆる料理を劇物へと変貌させる少女でなかったならば……!
「そのための料理を、僭越ながらこの八雲みたまが……」
「鶴乃!」
ももこはガッシリと鶴乃の両肩を掴む!
「確かにやちよさんは食べることが大好きだ! だからお前の中華の腕を磨いて、存分に味わってもらおう!」
「ももこ……!」
鶴乃は感動して立ち上がる!
「うん! わかった……ありがとね! みたまと十七夜も!」
そう言うと、鶴乃はダッシュで調整屋を出ていった。中華料理を作りに向かったのだろう。ももこは安堵の息を吐いた。
「もう、なんで遮ったのよ」
みたまが不満そうに尋ねた。ももこはみたまの斜め上の方向を向いた。その瞳は何も映していない。
「50点のほうがいいことだってあるんだよ……」
「うむ。良い判断だったぞ十咎」
十七夜は同意するように頷いた。「そりゃどーも」とももこはぞんざいに返事をする。50点とマイナス点が組み合わさるといかなる化学反応を起こすのかにも興味はあったが、さすがに想い人に出すための料理で実験をさせるわけにもいかない。
「二人とも失礼しちゃう!」
みたまは頬を膨らませた。ももこは眺めながら考える。鶴乃の中華料理は50点だ。何をどう努力しようと、0から1になるための壁はどうしても越えられなかった。しかし、今回は事情が違う。普段は万々歳のためだったが、今回は恋する相手のため……やちよのためだ。もしかしたら、想いがブースターになって壁を越えられるかもしれない……。
(頑張れよ)
ももこは心の中で呟き、ふと自身の携帯端末を見た。メッセージが来ている。鶴乃からだ。なんとなく不穏なものを感じた。こめかみを汗が流れるのを感じながら、ももこはメッセージを確認する。
『岡山に伝説のスパイスがあるんだって! ちょっと行ってくる!』
「……ア、アイツウウウーッ!」
そういう小手先の話をしたんじゃない! 恋して浮かれてるのか! あの最強馬鹿は! そういった思いをこめて、ももこはあらん限りの声で叫んだ。みたまと十七夜が驚いた様子で彼女を見つめていたが、気にする余裕はなかった。
◆◆◆◆◆
岡山県。それはカッパドキアめいた険しい自然を湛える禁断の高地。時刻は夜明け前……もっとも暗い時間帯だ。
一陣の風が吹き、道場前の開けた空間で対峙する魔法少女の髪を揺らした。片方は赤地に竜を思わせる金色の刺繍のある魔法少女服を身に纏う。もう片方は中国の民族衣装を思わせる橙色の魔法少女服……我らが由比鶴乃である。
鶴乃は姿勢を低くし、両手にそれぞれ扇を作り出した。一方、竜の魔法少女は半身になって素手の戦闘姿勢……柔術の構えを取り、手招きした。鶴乃は……投げた! 左扇を!
竜の女は人差し指と中指で摘み、投げ返す! 鶴乃は新たに生成した左扇で叩き落とし、右扇で水平に薙ぎ払う! 竜はブリッジ回避。そのまま地面を蹴り、足を高く振り上げる……! 変則的なサマーソルトキックだ! 鶴乃は扇で顎への一撃をなんとか防ぐも、対応しきれない! 身体が空中へ跳ね上げられる! 扇はバラバラの方向へと飛んでいく。
竜は着地し、深く沈み込んだ。鶴乃は竜の身体を巡る流水めいた、かつ爆発的な力の流れを見て取る。なんらかの必殺技が放たれようとしている。鶴乃の目が燃える。
鶴乃の右足が燃え上がった。彼女は苦痛に顔を歪める。自らの意思で火を灯したのだ。だからといって彼女自身がダメージを受けないわけではない。魔力による軽減があるとはいえ、皮膚はこの瞬間にも焼けているのだ。ゆえに普段は扇を燃やす。しかし、今は扇を生み出すなどという悠長な真似をする暇はなし!
竜の足元の石畳が放射状に砕け……一瞬後、稲妻が如き爆発的エネルギーと共に竜が跳んだ! 必殺技が繰り出される! 竜の飛び蹴りが! 鶴乃は空中で縦回転し、踵落としを繰り出す! 足と足がぶつかり合い、衝突した魔力同士が凝縮され、反発し、ビックバンめいて拡散し、超自然の風となって世界を吹き抜けた!
白み始めていた東の空に、神聖な輝きが灯った。太陽が姿を現したのだ。……夜明けだ。
◆◆◆◆◆
「岡山県に行ったらすっごく強い魔法少女がいてさ、スパイス貰った上に特訓まで付き合ってもらっちゃった!」
「ああ、そう……」
特訓は必要だったのか。ももこはその言葉をグッと堪えた。必要だったという答えが返ってくるに決まっている。無益だ。
「それで、伝説のスパイスっていうのはどんな感じなのかしらぁ?」
ももこの頭の上からみたまが身を乗り出す。料理の上達を目指す彼女は未知の食材に対して興味津々なのだ。鶴乃はバッグをゴソゴソと探り、拳大の巾着袋を取り出した。口の結び目を解くと、その中には光さえ吸収してしまうほどの黒い粉が入っている。
「あまり食材には向かん見た目だが……」
十七夜が懸念を示した。それに対して、みたまが大袈裟に首を横に振って否定する。
「見た目に騙されちゃダメよ! 料理って奥深いんだから!」
「……そうか」
十七夜は反論を諦めた。何を言っても無駄だと悟っているのだ。ももこがスパイスの匂いを嗅ぎ、首をひねる。
「匂いしないな……スパイスってもっと良い匂いとかするものじゃないのか?」
「わかんないけど、そういうものなんだって」
「ふうん……怪しい粉じゃないんだよな?」
「あの人はそんな嘘つく人じゃないよ!」
「いや知らないけど……」
鶴乃は巾着の口を締め直し、みたまに向き直る。
「余ったらみたまにあげる!」
「えぇ? いいのかしら……万々歳の料理の開発に使ったほうがいいんじゃない?」
みたまは奥ゆかしく遠慮する。正直なところ、彼女の頭にはそのスパイスを使ってみたい料理が多数浮かんでいる。しかし今回クエストの果てにスパイスを手に入れたのは鶴乃であり、万々歳の復興に役立てるために使う権利がある。その点が彼女を踏みとどまらせているのだ。
「万々歳で出すためにいちいち岡山に行かないといけないのは大変だし、みたまには今だって助けてもらってるから!」
鶴乃は笑顔でみたまの遠慮の内側まで踏み込んだ。みたまは瞬きし、微笑みを返した。
「ありがとう、鶴乃ちゃん。でも、その前にやちよさんに出す料理を作らないとね」
「……うん」
鶴乃は表情を引き締めて頷いた。みたまは手をブラブラとさせ、強い協力の意思を見せる。
「腕が鳴るわ。鶴乃ちゃんの恋愛成就のための料理……お姉さん頑張っちゃうわよぉ!」
「調整屋、それは……!」
「ううん、大丈夫。わたし一人で作るから」
慌てて止めようとしたももこは、鶴乃の声にそちらを見た。鶴乃は掌の上に置いた巾着をじっと見つめている。
「わたしだけの力で作った料理を、やちよに食べてもらわないと。手伝ってもらったら、わたしの料理じゃなくなっちゃう気がする」
「鶴乃……」
ももこは鶴乃のいつにないシリアスさに驚き、また心配した。鶴乃は愚直なまでに正しい道を追求する。それが時に、ももこの瞳には危うく映る……。
「うむ、いいんじゃないか?」
ももこの心配を他所に、十七夜はほとんど気楽とも言って良い軽さで頷いた。
「誰の力も借りず、想い人に自分の料理を食べさせたい。それだけのことだ。素敵じゃないか。十咎は何をそんなに心配しているんだ」
十七夜はももこを見ていた。魔力の気配はなく、心は覗かれていないはずなのに、ももこはどこか据わりの悪さを感じた。
「いや、真面目すぎるからさ。ちょっと道を踏み外すと一気にヤバい方向に転がっていきそうで」
「なんの話だ?」
「なんでもないよ。……アタシが頼られてるんだ、夢見の悪い結末にはさせやしない」
「うむ。よくわからんが自分もそれには同意しよう」
十七夜は頷いた。ももこは鶴乃を眺める。……そうだ、鶴乃の想いが最終的に届くにしろ届かないにしろ、アタシは最善を尽くす。やちよさんと鶴乃の仲が気まずくなるとか、みかづき荘チームにいられなくなるとか、そういう終わり方には絶対にさせない。ももこは強く、強くそう思った。
「そうねぇ……それじゃあ、残念だけど私は手伝えないわねぇ」
「う……ごめんね、みたま」
「いいのよ。鶴乃ちゃんの意思と恋の成就が第一なんだから。ところで、どういう料理を出すつもりなの?」
みたまの問いに、鶴乃はガバリと立ち上がった。その質問を待っていたかのように。
「それはね……!」
鶴乃は大きな身振り手振りで、自分が作ろうとしている料理について語った。それに対する反応は三者三様だった。ももこは顔をしかめ、十七夜は目を見開き、みたまは楽しそうに手を合わせていた。
◆◆◆◆◆
同日。夜。みかづき荘。
普段のこの時間は5人がテーブルの上に並べられた夕食を囲んで、最近遭遇した街や学校での出来事、夕食の感想、テレビの内容について話し、明るい空気に包まれている。しかし、今日この時だけはお通夜めいた静寂に包まれていた。なぜか? テーブルの上をご覧頂きたい。
5人それぞれの皿に、その炒飯は盛られていた。米は白砂めいて粉々に砕かれ、渦巻状が描かれている。隅っこでは真っ黒なスパイスが小さな山のようになっている。
「すっげー鶴乃! これなんだ!?」
一人だけ、唖然としていない者があった。深月フェリシア。彼女だけは一刻も早く食べたいと主張するように全身をそわそわとさせている。
「ふっふーん、よく聞いてくれたねフェリシア!」
テンションの高い鶴乃はクールなポーズを取ってフェリシアを指差す。
「わたし、昨日岡山行ってきたんだ。そこで、わたしはテクノロジーの届いていない険しい自然、それでもそこに暮らす人たちの強さを見た……」
「お、おおおおお……!?」
「わたしはインスピレーションを受けた! それがこの枯山水炒飯だよ! 伝説のスパイスは岩をイメージしたよ!」
枯山水炒飯! その響きにその場の4人は身震いする! 1人は興奮に、3人は恐怖に!
「な、なあ鶴乃! もう食べてもいいか!?」
「ふっふ……いただきますしてからね」
「いただきます! うめえ!」
フェリシアは食べる前から感想を口にしながら、炒飯をかき込んだ。咀嚼し、嚥下し、目を輝かせる。
「うめえぞ! この……枯れ葉? 炒飯!」
「枯山水ね!」
「それ! うめえ!」
「まあね! ……ほら、ししょーたちも!」
鶴乃は黙して動かないやちよたちに声をかけた。そう、この炒飯はやちよのために作ったのだ。食べてもらわなければ意味がない。
やちよ、いろは、さなの顔は皆一様に青褪めている。鶴乃の圧倒的とも言えるセンスに恐れをなしているのだ。鶴乃の頭はその光景を都合良く解釈し、見惚れているのだろうと結論付けた。
「……いただきます」
やがて、覚悟を決めたようにやちよが手を合わせた。続いていろは、さながためらいながら手を合わせる。やちよがスプーンを掴み、炒飯を掬う。鶴乃の心臓の鼓動が強くなる。やちよはゆっくりとスプーンを持ち上げ、口元へ……鶴乃が、いろはが、さなが固唾を飲んで一挙一投足を見守る……!
やちよは味わうように丁寧に咀嚼し、嚥下した。そのまま目を閉じ、暫し固まった。緊張に耐えきれず、鶴乃が尋ねる。
「ど、どう?」
やちよは厳かに目を開き、鶴乃を見た。鶴乃はその視線を真っ向受け止めた。
「そうね……予想してたよりは美味しかったわ」
「えっ!」
鶴乃は興奮のあまり腰を浮かす!
「じゃ、じゃあ……!」
「ええ、鶴乃……!」
やちよは微笑んだ。鶴乃にはその笑みがキラキラと輝いて見えた。
「50点よ」
鶴乃は崩れ落ちた。
◆◆◆◆◆
「おーい、生き返れー」
「はっ! 夢……!」
「夢じゃないけどな」
頬をぺちぺちと叩かれ、鶴乃は目を覚ました。青いステンドグラス。調整屋だ。横にはスパイスの入った巾着を手に小躍りするみたまと、その様子を心配そうに眺める十七夜の姿がある。
「くっ……どうして!」
鶴乃は寝かされていたベッドを叩く。
「完璧だったのに……枯山水炒飯!」
「その響きの時点でだいぶ嫌な感じはしたけどな」
ももこは枯山水炒飯の実物を見てはいない。鶴乃から原案を聞かされただけだ。それでも、常人が正視してはならぬものだということは痛いほど理解できた。後にいろはに聞いてみれば、枯山水炒飯の米は細かくなりすぎてかえって餅のようにくっつき、スパイスは単体で舐めてみると不思議な味だが、米と一緒に食べることで50点と化したと言っていた。美味しく食べていたフェリシアは偉いとも。
「ダメだったものは仕方がないわぁ。次を考えましょう」
鶴乃の肩に手が置かれる。上機嫌な八雲みたまだ。鶴乃は拳を握りしめる。
「次……そう、次の料理を考えないと……!」
「いや、一旦料理からは離れたほうが良いだろう」
十七夜がストップをかけた。それに対して鶴乃が、なぜかみたまも不満そうな顔をする。
「魔法少女に一度見た技は通じん。七海が相手ならば、それはより確実だろう」
「そっか……そうだよね……」
「何の話だ?」
「七海を堕とすと言うのならば、やはり……」
十七夜はカッと目を見開く!
「強さを求めるべきだ!」
「もう、前にも古い考えって言ったじゃない」
みたまが呆れ顔をするが、十七夜は首を横に振る。
「考えてもみろ。魔法少女にとって魔女退治はその全てが命懸けだ。半端な気持ちではすぐに命を落としてしまう。そんな中で一番強い者に課される責務はなんだ?」
「みんなを、守ること」
鶴乃が答えた。十七夜は頷く。
「然りだ。七海はチームで一番強い、奴の性格ならば不要なほど大きな使命感を抱いていよう。自分が全員を守らなければ……と。そこを」
「わたしがもっと強くなってフォローする!」
鶴乃は立ち上がった! 十七夜は頷く!
「守らなくても大丈夫と思わせるだけでは足りぬ。頼られるほど強くなれ! 忠犬!」
「ありがとう、十七夜!」
鶴乃は一目散に調整屋を出る! ももこは十七夜を見上げた。
「忠犬って……」
「む? 主人に対して尻尾を振り、主人に尽くすあの感じはまさしく忠犬ではないか」
「まあ……」
否定はできない。みかづき荘のペットと言えば鶴乃というのが昔から伝わる歴史だ。
「うーん……」
みたまは腕を組み、悩ましい声を漏らした。二人はそちらを見る。
「なんだ? 八雲も納得がいかないか」
「そうじゃなくて……鶴乃ちゃん、強くなるために何をすると思う?」
「勿論、修行だろう」
「そうよね……。まあ、いいのよ。予想が外れてさえしてくれたら……」
「……いや、多分外れてないぞ」
ももこは携帯端末を見ていた。みたまと十七夜は両脇から画面を覗き込む。そこには鶴乃からたった今送られてきたメッセージがあった。
『やちよと超短期超集中特訓する!』
◆◆◆◆◆
夜。新西区にいくつか存在する廃墟のひとつ。こんな時間に一般人は滅多に寄り付かない。来るのは反抗期のヤンキー、大っぴらに取引のできぬ商売人、あるいは魔女、あるいは……魔法少女。
「ぜえ……げほっ、ごほぉっ……」
「ふぅ……けふっ……」
そこには二人の魔法少女がいた。どちらも汗だくであり、橙の魔法少女の足元はふらつき、扇で支えていなければ今にも倒れそうだ。一方、青の魔法少女の足元は橙よりはしっかりとしているが、それでも息は荒く、うんざりしたような表情をしている。由比鶴乃、そして七海やちよだ。
「もう、夜よ……。帰るわよ……夜ご飯を、食べないと……」
「ま……まだぁ……!」
鶴乃は扇を振り上げ、初めて歩くことを覚えた赤子のようにフラフラとやちよに迫った。それが振り下ろされるよりも早く、やちよは歩いて肉薄し、鶴乃の眉間にチョップを食らわせた。
「いだっ」「特訓は」チョップ。「いだっ……」「終わりよ」チョップ。「いっ……」「帰るわよ……!」チョップ。「…………」
一打ごとに鶴乃の身体は沈み込み、最後には完全に地面に突っ伏していた。抗うように震える腕が伸びてきたが、途中で力尽きて地面に落ちた。やちよは10秒ほど見下ろし続けた。鶴乃はピクリとも動かない。疲労が肉体の限界を越えてしまったのだ。
「この子は……」
やちよは全身の空気を吐き出すようなため息をつき、項垂れた。やがて屈み込むと、鶴乃を背負い、魔法少女の脚力で廃墟から走り去った。
◆◆◆◆◆
「強くなった気がする!」
「…………」
ももこは椅子に座り、腕を組んで瞼を閉じている。みたまが肘で小突く。
「何か言わないの?」
「なんか最近アタシばっか怒ってる気がする」
「怒れとは言ってないわよ。うーん……十七夜、お願いできる?」
「自分か?」
十七夜は瞬きし、頷く。
「承知した。忠犬、背中を向けろ」
「え?」
鶴乃はよく考えず後ろを向いた。十七夜はソウルジェムから乗馬鞭を取り出し……鶴乃の尻を打った!
「いッたぁ!?」
鶴乃は跳び上がり、距離を取る! 十七夜はツカツカと迫る!
「この大馬鹿者! あれでは逆効果だ! 七海に距離を置かれたらどうする!」
「いや、やりすぎだろ!」
「あれはちょっとねぇ……」
止めに入ろうとももこが腰を浮かす。その時、鶴乃が叫んだ。
「というか、十七夜の提案じゃん!」
その叫びは十七夜に大きな衝撃を与えた。然り、方法も指定せずに強くなれと焚き付けたのは、他ならぬ和泉十七夜自身である。だからといって全てが十七夜のせいというわけでもない。やちよと猛特訓するという方法を考え、実行したのは鶴乃だ。
「確かに、そうだ」
しかし、十七夜は潔く自らの過ちを認めた。彼女は他に類を見ないほどに真面目であり、己のミスを他人に転嫁してしまったことを自覚し、深い後悔に襲われたのだ。彼女は鶴乃に歩み寄り、乗馬鞭を差し出した。
「1回は1回だ。それで自分の尻を打ってくれ」
「そんな、別にそこまで……!」
「自分の気が収まらんのだ……頼む!」
鶴乃は畏れるように乗馬鞭を見た。そして、ごくりと唾を飲み込み、手に取った。「恩に着る」と感謝を告げ、十七夜は背中を向けた。鶴乃は大きく息を吸った。乗馬鞭を振りかぶり……思い切り尻へと叩きつける!
「ぐうっ!」「うわ」「まあ」
破裂音にも似た打擲音が響く! ももこは肩を竦め、みたまは指で目を覆うフリをして指の隙間から彼女たちを覗いた。
「なんか……十七夜さん、すごいな」
「真面目よねぇ」
十七夜は蹲り、じっと痛みを耐えていた。その肩は小刻みに震え、口からは微かな呻き声が漏れている。それから10秒ほど経ち、彼女はゆっくりと立ち上がった。そして3人のほうを振り向いた。
「さあ、次の手を考えるぞ」
「なんかズルいな!」
◆◆◆◆◆
『どうせなら魔法少女らしいこと……一緒に調整してみましょうか!』というみたまの言葉により、現在やちよと鶴乃は隣り合ったベッドに寝かされている。そして今、みたまは調整を終えてふたつのソウルジェムから手を離した。
「……ん」
やちよが瞼を重そうに持ち上げ、上体を起こした。そのすぐ傍にはももこと十七夜が待機し、じっとやちよを見下ろしている。
「……何よ」
やちよは疑うような視線を二人に向けた。ももこは誤魔化すようにそっぽを向く。
「あー、いや……なんかいつもと違うことなかったか? こう……鶴乃の夢を見たり」
「なかったけど……」
ももこと十七夜は目を見合わせ、ため息を吐いた。「なんなのよ……」とやちよは呟き、隣のベッドを見た。鶴乃はまだ寝ていた。幸せそうな寝顔だった。
…………。
みかづき荘のリビングで、鶴乃はそわそわしながら5秒に1度ほどのペースでやちよを横目で見ていた。やちよはその視線に気付きながらも、気味の悪さに見て見ぬふりをしている。
『押してダメなら引いてみよという諺もある。あえて距離を置くことで意識させるんだ』
これが今回の十七夜発案の作戦だった。鶴乃は今にも飛び付きたい欲求を堪え、頭からやちよを追い出そうとしている。しかしそうすればするほど、かえって頭の中のやちよは鮮明になり、匂い、柔らかさが強く呼び起こされてしまうのだ。
「もう、いったいなんなのよ」
気味の悪い態度に痺れを切らしたやちよが、腰に手を当てて鶴乃を睨みつけた。……だが、痺れを切らしたのは鶴乃も同じだった。
「ししょおおおお〜!」
鶴乃はジャンプしてやちよに飛びついた。鼻と口が鶴乃の腹部によって圧迫される。呼吸ができず、やちよはバシバシと鶴乃の背中を叩いた。それでも鶴乃は「ししょおお〜!」と鳴いて離れず、限界が来たやちよは頭を大きく振り、頭突きめいてソファに叩きつけた。
…………。
『ワンちゃんよ! やちよさんの周りにはワンちゃんみたいな子が多いでしょ? つまりやちよさんは犬好き! つまりワンちゃんの真似をすればもうメロメロよ!』
「わんわん!」
ソファに腰掛けて本を読むやちよに、鶴乃は元気な鳴き声を上げた。やちよはその光景を見て、眉間を押さえた。
「ああ、鶴乃……とうとう本当に犬になっちゃったのね……」
「わんわんわん!」
「お手」
「わん!」
やちよが差し出した手に、鶴乃は躊躇わず丸めた拳を乗せた。その姿はまさしく忠犬である。
「よしよし」
「わんわんわんわんわん!」
鶴乃はやちよの腹部に抱きつき、見えない尻尾をブンブンと振った。やちよは大型犬の頭を片手で撫でながら、もう片方の手で器用に本を捲った。鶴乃はうまくあしらわれていた。
◆◆◆◆◆
「ありえん……七海は鉄壁か!?」
「あんなにチョロいのに、肝心なところで鈍いんだから……」
十七夜が拳で柱を叩き、みたまが頭を押さえる。調整屋には絶望的な空気が立ち込めていた。魔女が発する瘴気ではない、希望の象徴である魔法少女がこの空気を生み出しているのだ。椅子に座る鶴乃が気落ちしたように呟く。
「わたし、やっぱり魅力ないのかな……子供っぽいってよく言われるし……」
「そんなことないわよぉ。ただ、ちょっとやちよさんの見る目がないだけよ。こんな健気な子に靡かないなんて!」
「さっきからやちよさんへの棘が凄いな」
机に突っ伏すももこが言った。この中でただ一人、彼女だけはどこか外からこの状況を眺めているかのように冷静だった。みたまは振り返り、ももこを力強く指差す。
「ほら、ももこも何かアイデア出して! 鶴乃ちゃんの恋愛成就協力会のピンチよ!」
「そんな名前のついたものに入った覚えはないけど……んー……」
ももこは気が乗らないようだった。みたまは眉をひそめる。
「なんだ、思ったことがあるならば言え。なんらかのヒントになるやもしれん」
十七夜が促す。ももこは少し唸ってから、口を開く。
「いや、さ。鶴乃っていっつもやちよさんに料理作ったり、引っ付いたりしてるじゃんか」
「うん」
鶴乃は頷く。
「それってさ、普通の人にしてみれば充分アピールだし、なんなら付き合ってるようにすら見える。それに慣れられちゃってるってことは、もうどんなアピールも通じないんじゃないか?」
「このペシミスティックももこ!」
「危なっ!」
みたまが投げつけた手近なカードを、ももこは慌てて顔を上げて回避する。カードは壁にぶつかると爆発し、小さなコンクリート片を撒き散らした。
「それをなんとかするのが私たちの使命でしょ!」
「なんとかって言っても、これ以上ってなると……その……」
ももこの声が段々と小さくなり、反比例するように彼女の耳が赤みを増す。
「……エッチなこと、とか」
「十咎……」
「ムッツリももこ……」
「調整屋ァ!」
今や顔全体を真っ赤に染め上げたももこが立ち上がる。「やぁん、助けて十七夜。ももこにエッチなことされちゃう」とみたまは十七夜の周りをグルグルと逃げ、ももこがグルグルと追いかける。十七夜は閉口して目をつぶっている。
「だ、ダメだよそういうのは!」
鶴乃が叫んだ。彼女の顔もまた燃え上がるように赤い。
「その……やちよとは、そういう……とにかくダメ!」
純粋! 十七夜は安心させるように微笑む。
「安心しろ忠犬。助平以外にそんなことをさせようとする者はここにはいない」
「その呼び方はマジでやめろ!」
「でも、アピールが通じにくいっていうのは一理あるかもねぇ」
脱線した話題をみたまが調整する。
「普段から暖簾に腕押しってことは、今更アピールしてもいつも通り、それどころかいつもよりヌルいって捉えられちゃうかもしれないものねぇ」
「さっき同じこと言ったら悲観的ってカード投げられたんだけど。それを何とかするのがアタシたちの役目とも」
「人は日々変わっていくものよ」
「そうですか」
「では、これからどうする」
十七夜は鶴乃を一瞥した。鶴乃は動物の耳が生えていれば垂れ下がっているだろうと思えるほど、目に見えてシュンとしている。
「そうねぇ……アピールは継続、でもチャンスを待つしかないのかも……」
「今は雌伏の時か……」
十七夜は苦々しげに口にした。鶴乃は俯いた。無理もない。普段通りではやちよに振り向いてもらえないからこそ、鶴乃はここに相談しに来た。何か状況が変わることを期待して。だが、結局出てきた結論は現状維持し、耐え忍ぶこと……。3人は気の毒そうに見やる。……やがて、鶴乃が顔を上げた。笑みを浮かべて。
「わかった! ありがとね、ももこ! みたま! 十七夜も! わたしもちょっと考えてみて、頑張ってみる!」
それが貼り付けた笑みであることは、誰の目にも明らかだった。そして、その場の誰もが鶴乃にかける慰めの言葉を思いつかなかった。
「そろそろ帰らないと! やちよが心配してるかもしれないし!」
鶴乃は立ち上がって出口のほうへと歩いた。その後ろ姿が3人にはやけに寂しく見えた。鶴乃は最後に「じゃあね! ほんとにありがとね!」と言い、扉の向こうへと消えた。
「……あーあ!」
ももこはベッドに仰向けに倒れ込んだ。その後、何を言うでもなく、彼女は天井をただ見つめていた。十七夜はみたまを見る。
「自分も帰るとする。少々長居しすぎた」
「そう。気を付けて帰ってね?」
「うむ。十咎! 同じ学校だろう、忠犬をよく観察しておいてくれ。恋愛成就会はまだ解散していない」
ももこは口を開かず、ただひらひらと手を振った。それで満足したのか十七夜は頷き、調整屋から退出した。後にはみたまとももこが残り、暫く沈黙が続いた。やがてみたまが口を開いた。
「これで終わりじゃないわ。アピール継続ってなっただけなんだから、そんなに拗ねないの」
「別に拗ねてるわけじゃ……」
「そうねぇ。最近のももこはずっと拗ねてたものねぇ」
みたまはももこの寝るベッドの傍へと近寄った。ももこは黙って見上げている。みたまはベッドの端に腰掛け、両手をももこの顔の両脇について覆い被さった。
「ももこが隠してることは、調整屋さんには筒抜けなんだから」
「…………」
「十七夜に嫉妬しちゃって。かーわいいっ」
みたまは顔をももこにゆっくりと寄せた。唇が重なる。それはたった数秒。みたまが顔を離すと、ももこは未だ不満げだ。
「そりゃ、するさ。調整屋と十七夜さんは、深いところで繋がってる感じがするし……」
「……そうねぇ」
繋がっているとしたら、それはきっとこの街への憎悪によって。しかしそのことは話さない。あまり話したいことでもないし、何よりももこも無理に聞き出そうとせず、事情を知らずともただ寄り添うことを選んでくれている。だからこそ、みたまはそんな優しいももこが好きなのだ。
みたまは再び顔を寄せる。今度は手で遮られた。今日のももこは頑なだった。
「そうやって誤魔化そうと……」
「してないわよぉ」
みたまは唇を尖らせ、間を遮る手をどかす。
「私がこうしたいと思うのは十七夜じゃないし、他の誰でもない……今私の目の前で可愛く拗ねちゃってるももこちゃんなんだから」
ももこは目を見開き、目を伏せて「ちゃん付けやめろ、気味悪いから」と呟いた。その頬は微かに赤く染まっている。赤はみたまの手で覆われ、みたまの影がももこの表情を隠した。今度のキスは長かった。
◆◆◆◆◆
すっかり夜も更けた道を鶴乃はとぼとぼと歩く。周囲に人影はなく、それがかえって彼女がたった独りで歩く姿を一層際立たせる。
上を向けば、星のほとんど浮かんでいない夜空。鶴乃は立ち止まり、何とはなしに手を伸ばす。遠い。やちよは夜空みたいだった。でも、もっと星がいっぱい瞬いていて、もっと温かい。
(……だから、手は届かない……わたしだけのものにはならない……?)
鶴乃は手を降ろし、再びとぼとぼと歩き始めた。……しかし、またすぐに止まった。彼女の魔法少女としての嗅覚が、呪いの臭気を捉えたのだ。魔女が近くにいる。彼女は四方を見回し、一本の路地裏のほうへと走った。
彼女の予想通り、そこに魔女の結界はあった。結界は不安定に揺れており、魔女の呪いとは異なる魔法少女の魔力も漏れ出している。鶴乃のよく知っている魔力。
「やちよ……!?」
鶴乃は変身して結界へ飛び込んだ。道中に使い魔はほとんどいない、先行した魔法少女が倒したのだろう。討ち漏らされたらしき使い魔を焼き切ってあしらいながら、鶴乃は奥へと急ぐ。
そして、結界の最深部で彼女は見つけた。無数の使い魔を従える魔女と、青い魔法少女を。七海やちよ。
やちよの動きは色付きの風めいて疾く、使い魔はおろか魔女でさえ完全には捉えきれていないようだった。助けに入ればかえって邪魔にすらなるだろうか。それでも何か助けたい。鶴乃は入り口から最深部全体を俯瞰する。
そして、見つけた。部屋の隅において、姿を取りつつある奇妙な使い魔の姿を。それは槍めいたものを構えており、何より魔力の反応がほとんどなかった。魔女や使い魔はどれだけ弱かろうとその内側からは呪いを放出している。だが、それが感じられないのだ。ステルス使い魔、とでも呼ぶべき存在だろうか。
ステルス使い魔の姿は黒い靄めいて固定され、周囲の使い魔の3倍近いスピードで突進を始めた。やちよは気付いているだろうか? 確かめる暇はなし!
「やちよー!」
鶴乃はやちよの方向へと跳んだ! やちよは使い魔を3匹まとめて蹴り飛ばしてから声の方向を向き、目を見開いた。鶴乃は燃え盛る扇を振り下ろした! ステルス使い魔は両断され、消滅する!
「やちよ、大丈夫!?」
迫り来る使い魔を炎の波で威嚇しながら、鶴乃は背後のやちよに尋ねる。
「……ええ!」
やちよは鶴乃の隣に並び立った。二人は魔女を睨んだ。それぞれの魔力に光る二対の瞳に捉えられ、異形でありながら魔女は恐れるように後ずさった……。
……………。
その後、大した危険もなく魔女は討伐された。並の魔女が相手ならば彼女たち師弟の敵ではない。結界が崩れて外の夜が戻ってくる。鶴乃は変身を解きながら尋ねた。
「そういえば、やちよはなんでここにいたの? もう夜ご飯の時間でしょ?」
「あなたを探しに来たんじゃない」
やちよもまた変身を解きながら返事をする。鶴乃は首を傾げる。
「わたしを……?」
「今日来るって言ってたじゃない。なのに来ないし、連絡は繋がらない……何かあったらいけないし一応探してたら、ちょうど魔女の反応があったのよ」
「連絡?」
鶴乃は携帯端末を取り出した。確かに着信通知がいくつも来ている。「あはは!」と彼女は笑って誤魔化した。やちよはため息を吐き、踵を返す。
「ほら、帰るわよ。みんなお腹を空かせて待ってるんだから」
「……うん!」
鶴乃とやちよは並んでみかづき荘への道のりを歩いた。やちよが、自分のことを探しに来てくれた……その事実を、鶴乃は胸の内で噛み締めていた。
◆◆◆◆◆
「ふんふん、ふふふーん……」
みたまは鼻歌を歌いながら、伝説スパイスを詰め替えた器を棚に閉まった。棚の中にはその他にも結晶化した魔術的01、この世ならぬ音を発する角笛など、精神の弱い常人が見れば発狂してしまいかねないアイテムがしまわれている。
扉を開く音が聞こえた。みたまはそちらを振り向き、笑顔になる。
「やちよさん。いらっしゃい〜」
「おはよう。調整お願い」
「はいは〜い」
みたまはグリーフシードを2つとソウルジェムを受け取り、処置用ベッドへと案内した。やちよはそちらへ向かいながら、みたまに尋ねる。
「あなた、鶴乃に何か吹き込んだ?」
「え?」
「最近あの子の様子がおかしかったのよ。あなたなら悪戯で変なこと唆しそうだし」
「やちよさんったら失礼しちゃう!」
「別に知らないならいいわ」
やちよはベッドに寝転がり、「お願いね」と言った。そして目を閉じた。みたまは腹いせに寝顔に悪戯でもしようかと考えたが、決して身に覚えのない話ではなかったのでやめておいた。何より起きてからが怖い。やちよはももこよりも冗談が通じない。
みたまはソウルジェムに触れ、魔力を集中する。やちよの魂に無害な呪いを流し込み、また絡まったスパゲッティのようになっている部分を調整する。……微かに、記憶と感情が流れ込んできた。彼女は魔法少女の記憶をあえて引き出すことはできない。それは歩いているときに石を蹴飛ばしてしまうような偶発的な出来事であり、今回やちよの記憶が流れ込んできたのもまた、偶然だった。
やちよの記憶の鶴乃は、渦巻状の謎めいた炒飯を自信満々でテーブルに置いていた。流れてくる感情からすると、このときのやちよは単純に困惑していたみたいだった。次の記憶が流れ込んでくる。何度負けてもめげず、倒れるまで向かってくる鶴乃。頼られるのは嬉しいが、いい加減うんざりするやちよ。次の記憶。調整から起きると、隣で幸せそうに寝ていた鶴乃。無垢な表情に幸せが少し移ってしまうやちよ。珍しく引っ付いて来ない鶴乃。意外さと共に微かに寂しさを覚えるやちよ。犬のように甘えてくる鶴乃。可愛いと感じるやちよ。
そして。
『やちよー!』
知覚外から迫り来た使い魔を焼き払い、幻想的に舞い散る炎の中、盾になる鶴乃の背中。並び立った時の鶴乃の横顔。普段尻尾をブンブン振ってついてくる大型犬に、一瞬見惚れてしまうやちよ。その記憶は他の記憶よりも鮮明に再生され、その感情は他の感情よりも鮮烈に心を揺らした。
基本的に流れ込んでくる記憶は、強く印象に残っているもの。今やちよから流れ込んできた記憶は、鶴乃に関するものばかり。
「……あらあら」
みたまは楽しそうに呟き、調整を続けた。鶴乃が次に来たとき、なんと声をかけようか考えながら。
ファッキン・デスパレイト! 終わり
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