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主格偏重の現代に一石を投じる”与格”という視点

本日は先日買った「思いがけず利他」のちょっとした読書感想文です。

まだ半分ちょっとしか読めていないのですが、非常に面白い・・・というか学びの多い本でございました。

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いくつか心に響くポイントがあったのですが、その中でも特に私の心にグッときたのが”ヒンディー語の与格構文”について書かれている部分です。

まず、著者はヒンディー語の与格構文についてこのように語っています。

初学者が必ず躓く文法があります。「与格構文」というものです。
例えば、「私はうれしい」と言う場合、ヒンディー語では「私にうれしさが留まっている」という言い方をします。「風邪をひいた」も同様で、「私に風邪が留まっている」という言い方をします。
この「〜に」で始める構文を「与格構文」と言います。
文法書では、自分の意思や力が及ばない現象については、「与格」を使って表現すると書いてあります。(省略)
要は自分の行為や感情が、不可抗力によって作動する場合、ヒンディー語では「与格」を使うのです。

「私はあなたのことが好きだ」というのは主格であり、「私にはあなたが好きという想いが留まっている」というのは与格という表現になるわけだ。

これは言語の違いもあるけれど、非常に良い表現だなと思った。

前者の主格は、”自分の意思”であなたのことを好きだとしているのに対し、後者の与格は”不可抗力的”に、”オートマチック(自動的)”にあなたのことが好きだ、と言っているわけだ。

著者も本書の中で言っているが、現代ではあまりに主格的な表現が偏重している。

主格に偏りすぎると、何か目的を達成した時や、やり切った時に「自分の力でやり遂げた」と思い上がりやすく、

逆に与格的な視点を持てれば、「自分にやり遂げるだけの力が宿ってくれた」となり、思い上がらず謙虚な心持ちであれる。

著者は、子どもが病に苦しんでいた時のことをこのように書いています。

祈っているという自覚は、全くありませんでした。
祈る余裕すらなかったというのが実情でした。
ただただ胸が締め付けられ、動揺していただけでした。
しかし、私は祈っていたのです。
無力な自己を子どもの前にさらすしかなかったとき、私は無言で、無自覚に祈っていたのです。
正確に言えば、祈りが私にやって来て、宿ったということになるでしょう。

祈りすらも、主格と与格で大きく違ってくるのだと気づいた。

今まで”私は祈る”という主格的行為は行なっていたが、”祈りがやって来て私に宿る”という視点は持てていなかった。

でも、本当に苦しくて、「どうか・・どうか・・」と心の奥底から祈った時の心の温かさは、間違いなく”祈りがやって来て私に宿っていた”のだと、今更ながら気づいた。

主格ではなく与格、というこの視点を持てるようになっただけでも、大きな学びをくれた良書だったと思う。

続きもまた楽しみながら読ませていただきます。

おじゅん


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