東洋医学と西洋医学

東洋医学と西洋医学では、対象とする標的が根本から違います。

近代西洋医学は基本的に、「不測の事態」に対応するために発達してきました。ターゲットは外部環境の、突発的な乱れです。
その筆頭が戦争による四肢の損傷や、有害なウィルスの侵入です。その方面では一日の長が、西洋医学にはある。
だから尻がいきなり爆発したり、世界規模の感染症にかかったら、西洋医学に頼るのはとても合理的です。私もそういう人がいたら、「病院に行ってください」と言います。西洋医学は”不幸にならないための技術”だから。

ですが”養生”という方面に関しては、西洋医学は、まるで力を持ちません。
なぜでしょうか。

製薬会社が提供する風邪薬や痛み止めというのは、身体の自然性の発露である、好転反応をブロックするのが目的だからです。
症状が人間にとって不快なものだから、「内なる自然」を敵視する。その前提で投薬はなされます。

でもそれは、ごまかしやトリックです。
子どもだましです。
いくら痛み止めを飲んで不調をごまかしても、根本の原因が患者自身でわからなければ、それで身体がよくなるはずがありません。
現代人は、自分自身を欺くことが誰しも当たり前となっているので、よくこの手の薬に頼ります。

好転反応を「不測の事態」だと誤解する。
身体のシグナルを受け止め損なう。
自己欺瞞が当たり前になると、小さな不調はどんどん内攻していきます。問題が内側に巣くい、複雑化し、根深くなってくるのです。


小さな不調が凝り固まったものを、野口整体では「硬結」と呼びます。
これは調律点(いわゆる中国医学のツボ)上に現れたり、脊椎の側に現れた、局所的な硬い部分を指します。訓練された指なら、物理的に探知して、触れることができます。

おもしろいことに硬結は、硬結同士のネットワークを形成します。ある一つの硬結が、別の硬結の”因”となり、またその硬結が”果”として、次の硬結を生む……といった、数珠つなぎの構造になっている。
仏教的にいえば、それは「縁起によって構成された煩悩」でしょうか。

修行仏教が坐禅をするのは、もちろんこれを解くためです。
というのも、一定の行動パターンには必ず「習気(しゅうき・じっけ)」と呼ばれる、反復のためのエネルギーが含まれているからです。
現代的にいうと、それは「キャッシュメモリ」のようなものです。反復回数が多く、自分でも意図せずに行っている行動データです。

習気を解くためには、反復エネルギーが立ち上がる瞬間を、自ら観察することが必要です。
この観察を「サティ」といいます。気づきという意味のパーリ語です。
自分で「このパターンはだめだ」と気づいた瞬間に、その行動パターンは解除され、硬結は成仏して消えます。というのも、硬結はある種の筋肉や神経系統の伝達パターンとして保存されているからです。


ここまでの説明で、おわかりいただけたでしょうか。
修行仏教と整体は、同じ事(行動パターンの解除)を、別の角度からやっています。
活元運動が「動く禅」と呼ばれるのはおそらくこのためだし、そのルーツが修験行者にあるのも、両者の根っこがとても近いからです。

仏教や仙道に端を発する東洋医学は、「日常の病」に向けて最適化されています。その多くは不摂生、つまりよろしくない行動パターンや生きる上での悪手を、早めに戒めることから始まる。
つまり、その克服対象は「自分の生活の悪いところ」です。
また、それは己自身を本質直観することにもなるので、ヴィパッサナー瞑想にも近いものがある。
ヴィパッサナー。
それは”ものごとをありのままに観察する”という意味です。

自分で自分の状態を、客観的に自覚してもらう。
これが相当に難しい。
そのために医家や整体師は、時間をかけて人体の観察技術を学びます。触診や脈診といったアナログな手法が充実しているのが、東洋医学業界の特徴です。というのもアナログ検診の方が、圧倒的にクライアントの情報を多く、しかも精確に汲み取れるからです。

インドのアーユルヴェーダの治療家には、脈診だけで昨日食べたものを当てる人がいるそうな。また、整体でも脈はここぞという時に見ます。

二年弱整体を学んだアマチュアの私が知っているだけでも、おおよそ40近い身体の調律点やツボがあります。これは元ネタの経絡理論を簡略化しているので、実際は、この十数倍の観察ポイントが潜在しているはずです。

西洋医学は、不幸にならないための技術。
東洋医学は、幸福になるための技術。
あなたに今足りないのは、どちらでしょうか。

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