展覧会が苦手だということ

絵なんか沢山置いてある場所で人々がひしめき合っているあの感じが苦手だ。

人が多すぎる。1人でも自分以外の誰かがそこにいれば多すぎると感じることだろう。

絵はある程度ジャンル分けされる。悲しいがそういうものだ。なんでもそうだがジャンル分けされる。それは普遍的な基準を作るためであると思う。何でもそうだが、深く詳細を知るに必要なのは時間である。作品群をパッと見て、それらがなんであるかを瞬時に理解することは不可能であろう。よっぽどの人なら出来るのだろうか。私は平凡であるから知らない。世の中はほとんどが平凡で構成されている。

だからジャンル分けする。最初に時間をかけた人間が、「この感動を誰かに分けたい」と思う。そこまでの熱量を持たないであろう人間にも分けたい。じゃあ何をするかって、ジャンル分けだ。

これらの絵はこういう絵ですと、そう示す。そうすれば、時間をかけてない、その作品群にさほど興味のない人間でも、「あ、これらの絵はこういうものなのか」と思うわけである。それでその絵をすっかり自分のものにしたかのように思うのだ。大した時間をかけていないのに。感動は共有出来ない。興味の程度に差がある限り、誰一人分かり合えないのだ。世界にはこういう人間がほとんどだ。深い興味はそれだけで貴重なのである。だから、「偏見」が生まれた。昨今言う「ええ、そんな絵が好きなんだ」なんて言葉。これはジャンル分けの負の面である。パッと見て、「あーそういうジャンルの絵ね」なんて思うのだ。

このジャンルという大きな枠は、額縁になって私をも囲むのである。私がジャンル分けされてしまった絵に囲まれた時、私は「そういう絵が好きな、そういう人」と認識されてしまうのだ。周りの人間は色々なことを思うだろう。「いいよねこの絵。あなたとなら仲良くなれそう。」「こいつこれ好きなんだ。自分に酔ってんなあ。根暗で鬱陶しいぜ。」「あの服装、ちょっとここにはそぐわなくないか?同じものを好きだと思いたくないね」

私のことは何も知らないのに。


仲良くなんて出来ない。私は絵じゃないから。

なんて私は、そういうジャンルの絵を見る人を眺めて喋ってもいないのに、中身を決めつける。

こういうジャンルの人は、こう思うでしょ、と。

展覧会の正しい楽しみ方は、絵がある部屋で1人きり、床に寝転がったり、関連の書籍 、食べ物なんか置いて、気の済むまで、色々な眺め方をして、誰のことも考えず、好きなことだけ考えて、絵と二人きりでいられる、そういう時間である。

これは、身勝手な私の中でだけの、正しさである。