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お父さんの脱体(5)~空席~

お父さんはあれよあれよと整い棺に納まった。これがおくりびとか! とついモックンを連想してしまう納棺師の方々のおかげさまだ。
見たことのある服を着ているお父さんは、よりお父さんらしくなった気がする。そしてすっかり祭壇が仕上った隣の会場に運ばれた。
そうか、機能が文字通りお父さんの隣で眠れる最後の機会だったのか。

祭壇は思っていた以上に立派なものだった。
晩年のお父さんは人付き合いも限られていたし、このご時世もあって基本身内で行うていをとることにした。参列にみえても県内の親戚数名とご近所の方くらいだろう。だから、こじんまりとで充分と思っていたのに、こんなに立派に?! 

「じゃぁそれで」ってなんとなく決めてしまったけど、もうひとランク下のタイプでも良かったんじゃないか? そんなことをふと考えてしまう。
でも、たくさんの花達に彩られて祭壇に納まった笑顔のお父さん(写真)がものすごく晴れ晴れとして見えて……これでよかったのかもしれないなと思った。


お昼過ぎから親戚がひとりまたひとりと会場に現れた。
まだ時間があるからと昼寝をしていて、寝起きで幼い頃から慣れ親しんだ叔父叔母の顔を見たときは、顔がぐしゃぐしゃになるのを抑えられなかった。まったく、自分で自分に驚いてしまう。不意打ちには用心だ。
「始まる前にゆっくり話できたらなと思って」
そんなひと言がいちいち染みる。

通夜振る舞いはこのご時世を理由に用意しないことにしていたのだけど、その旨を伝えると叔父は言った。

「みんなすぐ帰ったら、(お父さんが)寂しがるやろ」

……叔父さん、そのお気持ち、ものすごくありがたいのですけどマジですか。みんなとひとしきりお父さんを偲べたら、それは私も嬉しいのだけれども。
あわてて家族のみ夜ごはんにと頼んでいたお弁当の数を変更できるか確認する。大丈夫とのことでホッとした。
葬儀の席はもとより、もともとおもてなしということに慣れておらず、ましてやコロナ禍の捉え方は三者三様十人十色。せっかく足を運んでくださった皆様に失礼がないかとドキドキしてしまう。


お通夜に来てくださった方の数は予想を超えたものだった。そのほとんどが母のお知り合いと知り、母の交友関係の幅広さに驚く。皆さん口々に、お父さんへのお悔やみと母への励ましを言葉にしてくださっていて、地域のつながりというのはありがたいことだなと思った。

お父さん、お母さんが奥さんで良かったね。
「そりゃぁお父さんが選んだ人なんだから当然だよ」
なんて声が聞こえてきそうだ。

お通夜が始まる前、最後の挨拶を急に振られることになった義兄が確認してきた。
「あいさん、『今日はありがとうございました』くらいでさらっと終わっていいですよね?」
いいと思いますよと答えたら、本当に言葉通り「今日はありがとうございました」とだけ言ってお通夜を締めくくった。
……思わず笑ってしまったじゃないか。お義兄さん、ありがとう。
「え? それだけ?」と、お父さんも笑ってそうだ。


通夜ぶるまい的夕食は、近しい親戚のみで共にした。懐かしい顔ぶれ。見慣れた景色。でも、食べてる最中は意識してかせずか黙々と、食べ終わったらすぐマスクをつける様子が見られるところは2021な感じだ。
しばらく談笑していると、母が小さな声でぽつりと言った。

「お父さんがいないね」

……ほんとだ。こういうみんなで集う席ではいつもお父さんが一緒だった。
あぁ、そうだ。ここはお父さんのお通夜の席なのだ。いないに決まってる。
わかっているけれど、どこか忘れそうになっていたことを思いだす。
ちなみに長男だった伯父さんももういない。一人二人と、いつかはみんな、そして私も旅立っていくのだななんてことを思う。

ふと、私の目の前、母の隣の席がひとつ空いているのが目についた。
他に誰が来るでもない、誰が座っていたでもない、なんで詰めなかったのだろう? 不自然にも思える空いたままの席。

お父さんがいるのかもしれないな

何も見えないし感じない。ちょっと感傷に酔いしれた考えのような気もするけれど、そんな風に思ったら胸の真ん中がふわっと温かくなった。
ほんとにいたのかもしれない。


親戚のみんなも帰路につき、お父さんを送り出すセレモニーその1を終えた。
これからもう一晩、名ばかりの「寝ずの番」だ。


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死は最後のギフトという言葉があったかなかったか。お父さんの死を通して、悲しいだけじゃない、温かいものが溢れてくることを感じてました。

お父さんが旅立ったという事実は変わらずそこにあって。それは「=悲しいこと」なのも変わらないけれど、流れていく時間の中では悲しいだけじゃない、あったかかったり、嬉しかったり、おもしろかったり、驚いたり、とまどったり、いろんな感情が湧いては消えていく。留まり続けることの方がむしろ難しくて、移ろいゆくものなのだと。

それは、楽しいが先に立つときも、腹立たしいが先に立つときも、どんな感情が大きくやってこようと同じこと。「今泣いた烏がもう笑う」は普通に誰の中にもある。

明日もまだ悲しいだろうけど、悲しいだけの日じゃないんだろうな。

そんな風に自分の中を通り過ぎていく感情を眺めることができたこともまた、私にとっての大きなギフトとなりました。

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