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お父さんの脱体(6)~抜け殻~

「寝ずの番」どころか「寝る気満々だけどあまり寝れなかった番」再び。
目が覚めては隣の会場に行き、線香を確認して、お父さんの顔を覗き込む。

まだ温かかったお父さんの頬は少しずつぬくもりがひいていって、棺に入ってからはドライアイスを入れてることもあってひんやりと冷たくなった。
表情は変わらずそこにあるのに、温度と質感が変わっていく。レプリカのような陶器のような、そこにあるのはまさしくお父さんの抜け殻だった。

お父さんは体を脱いで旅立ったのだ

そう思えたとき、「いなくなって悲しい」とは違う感覚で目の前のお父さんの姿を見られるようになった。旅立ったということは、お父さんはどこかにいるのだ。私たちには見えなくなっただけで。

そんな風に思うと、親子として一緒に過ごせたことがありがたくて泣けた。結局泣くのだけれど心模様が全然違う。それはとても温かい感覚だった。


「寝る気満々だけどあまり寝れなかった番」は、少しずつ少しずつ、お父さんの死を受け入れ馴染ませていく時間になっていた。

魂の重さは21g。この体は今世での借り物。そんな話を聞いたことがあるし、永遠に続いていくものがあると私は信じている。それを実感させてもらえたありがたい時間。そばで過ごせてよかった。

髪だけはふわふわといつまでも生きているときのままで、不思議な感じがした。


明日は葬儀を終えて火葬。こうしてお父さんの顔を眺めたり触れたりすることはもう明日でおしまいだ。

でも、これは抜け殻なのだという風に見るならば。80年お父さんと一緒にいた何よりもお父さんの身近にあったものを、後の憂いなく処する行為が火葬。それを見届けられることをありがたいと思えた。

とはいえ。存分に目に焼き付けておこうと、ことあるごとにお父さんの顔を覗き込んでは戻って寝て、目覚めてはまた覗き込んで、触れて泣いてボーっとして眠って、そんなことを繰り返しているうちに朝を迎えた。

もう大丈夫。あとは今日1日をつつがなく終えられますように。


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「ある」を見る。
数年前から意識するようになりました。
「ない」ではなく「ある」を見る。
意識していてもいつのまにか「ない」ほうに気持ちを引っ張られることが私は本当に多くて、それはこのお父さんを見送る過程でも行き来していたことです。

あ、私は今、「ない」に意識を向けていたなと気づいては戻る。

ただ今回、本当にはっきりと「ない」と「ある」の違いがわかりました。
胸のあたりがギューッと苦しくなる悲しみか、じわーっと温まるような悲しみか。
同じ「お父さんの死」という状況にあっても、それをどう捉えるのか? どこに目を向けるのか? によって、感じるものが全く違う。「ある」を見ているときは、温かい感覚と共にあるのです。

お父さんにもう会えない。お父さんの声をもう聴けない。それは事実だけれど、「お父さんはいない」は真実ではない。

現実逃避のつもりもなくそう思えたとき、すごく気持ちが軽くなったことを忘れずにいようと思います。

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