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カルチャーショック・ヒューマンショック

  東から西へ転勤になった。

 荷解きは後回しにして先ずはご近所に挨拶をと、隣家を訪ねた時の事。留守番らしき小学校低学年の男の子が出て来て
「おとんも、おかんも、居てへん」と言う。
「えっ、ふとん( 布団 )とやかん( 薬缶 )?」
 聞き返しながら、借り物に来たのかと間違われたかな——と内心思った。

 男の子は、ちょっと不機嫌そうに、上目使いで
「ちゃうちゃう」と言う。
 ……まさか、犬のチャウチャウでは無いよね……
 こんがらかりそうな頭を傾げ笑ってごまかした私に、遠いところから来たよそ者と解ったのか、男の子はゆっくりと言葉を区切る様に説明した。
「お・と・ん、と お・か・んや、おばちゃん」

「ああ、そうなんだ」
 何となく言葉を理解できた私は隣に越して来た事を告げ、菓子折りを手渡した。
 すると、
「ありが、とう」と蟻が十匹と取れる、尻上がりのイントネーションでお礼の言葉が返って来た。

 早々に、関西弁の洗礼を受けた私はその後もまごつく事ばかりだった。
 私の苦労に反して、子供達は新しい環境にすんなりと溶け込み、転勤族の多い土地柄のせいもあってか、言葉の面で揶揄される事はなかった。
 以前から、お笑い芸人の番組をよく見ていた子供達は、むしろ生の関西弁を楽しんでいる様だった。
 それでも、オロッとする場面もあったそうで、遊びに欠かせないアイテム「じゃんけん」の仕方が全く対照的だと言う。

 関東では「じゃんけんぽん」と勢いよく、手の内が判らない様にするけれど、関西では「じゃい~けん~で~ほい」と、相手の出方を時差で読み取ろうとする意志が働くかの様に緩やかに行なわれる。
 しかも 、♪ ミ(じゃ)~レ(い)~シ(け)~レ(ん)~ミ(で)~ファのシャープ(ほ)~ミ(い)——と音階的に。
 子供たちはテンポが合わず、慣れるまで苦戦した様だ。

   なおしといて、は  → 仕舞っといて (勘違い:何を直すの?)
   そこ、どけて、(あるいはのけて)は→そこ、どいて   (勘違い : 何をどけるの?)

 もっとあったけれど、子供たちから聞いた戸惑った言葉のいくつかの例だ。

 私はと言うと、郷に入りては……と、覚えたての関西弁を一生懸命駆使しているつもりだったが、
「無理せんとき。ちっとも関西弁になってないやん」と、よく慰めの言葉を頂戴した。

 今では知ってる人も多いと思うが、関西では「飴玉」のことを「飴ちゃん」と言う。
 馴染みのスーパーマーケットも、例えば「山川スーパー」だったら「山ちゃん」と言う具合に、ちゃん付けで会話の中に登場する。

 辞書を引くと「ちゃん」とは主に人名に付け、親しみを込めて呼ぶときに用いる、とある。
 飴ちゃんも、スーパー山ちゃんも、愛すべき身近な存在としての呼称なのかなと思うに至った。
 その後、私は「○○ちゃん」と名字に「ちゃん」を付けて呼ばれる様になった。
 親しい隣人として受け入れられたのかなと嬉しい様な、こそばゆい様な。

 西の人の、人懐こい柔軟な人柄は、生活の折節に感じられたことである。

 すっかり土地に馴染んだある年の秋——
 京都へ紅葉を見に行く電車の中で、懐かしい言葉が頻繁に飛び交っていた。

  「‥‥したじゃん」
  「……それでさあ」

 観光客だろうか車窓を眺めながら、三人連れの若い女の子が楽しげな会話の真っ最中だった。
 頻繁に語尾を飾る「じゃん」と「さあ」
 家族の間ではバイリンガルの様に使っているが、他人の喋りは滅多に耳にする事がない「関東弁」。
 懐かしいはずなのに何か変?

 引っ越しの当日、送り出した荷物を追いかける様に新幹線に乗り込んだ。
 降り立った大阪駅から乗り換えた電車の中は帰宅のサラリーマンやOLでひしめき、一車両全部がまるでお笑い箱の様に、屈託の無い会話と笑い声が溢れていた。
 娘と息子を連れ、三人掛けのシートにまるで異邦人の様に小さくなって座っていたあの日を思い出す。
 地軸が反転したような二つの光景に、一体私は何処の何者なのかと心が彷徨い始めていた。

 かくして、転勤族はあちこち移り住むたびに

  「 カルチャーショック と ヒューマンショク 」

 を味わうのです。



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