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富士イチ ラウンドライドメモリー

序章

「フジイチ」とは富士山裾野自転車一周の事で有る。
自転車ロングライド一周系を「〇〇イチ」と自転車乗りの中ではそう表現されている。「サドイチ」佐渡ヶ島一周「ビワイチ」琵琶湖一周「アワイチ」淡路島一周など数えればキリが無い。
何処をスタート地点にするかは何処でも良い。
コース取りも一応推奨ルートは有るのだけれど、とにかく富士山の裾野を一周すれば自由だと思う。
距離は120km前後になる。
2年前「東京ロングライド」を同行した経験豊富なKさんに「何処か連れてって」とお願いしたら「フジイチ」どう?の提案に決行する事となった。
PCにデータが残っていたので、振り返ってみたいと思う。


2022年10月30日 日曜日

29日土曜日の夜、「道の駅 朝霧高原」を目指して高速道路に乗った。
今回のフジイチの起点は静岡県富士宮市の「道の駅 朝霧高原」此処に車をデポしてラウンドの計画で有る。
深夜「道の駅 朝霧高原」に到着するが寒すぎる。標高は896mでいつ雪が降ってもおかしく無い季節だ。
自転車を組み立てて、寝袋に包まり車中泊した。翌日朝5:00に起きるが更に寒すぎる。
気温はサイコンのデータを見てみると6℃。
真冬なら暖かい気温だが、身体はまだ冬支度にはなっていないので大分応えた。
もっと下がっているかと思ったがデータはデータである。普段この体感温度なら自転車に乗る気も起きない。
シューズカバーは勿論、冬用のグローブにインナー、耳まで隠れるビーニー、車中泊用に持参したダウンジャケットまで着て6:00スタートした。

天気も曇りで日も当たらない。
道の駅で辛うじて見えていた富士山も
この後一度も拝むことは無かった。

そのままメインルートをラウンドするのでは無くて、「富士山スカイライン(表富士周遊道路)に上がって御殿場に降りない?」とKさんが言うので、初めてのコースだし、訳が分からず任せるとスタートした。
先ずは反時計周りでR139を南下するが直ぐに「県道72富士白糸滝公園線」へ左折。

天気が良ければこのロケーション
Google mapストリートビュー


勾配の緩いダウンヒルが続き快適だけど寒過ぎる。遠く富士の裾野から朝陽が昇ってきて、少しは暖かくなったかな?

この日の唯一の太陽。
朝陽に向かって走れ!

県道72信号篠坂を左折し暫く進むと、いよいよ富士山スカイラインのヒルクライムがはじまる。
後で知るのだが、ここは2020年東京オリンピック男子ロードレースの一部コースであった。
富士山スカイラインは昭和45年に有料道路として建設され現在では無料となっている。静岡県の富士宮市と御殿場市を結ぶ富士山南麓の静岡県道の愛称であり、富士登山口のひとつとして賑わう、富士宮口富士山五合目にアクセス出来る道路である。
御殿場市の信号中畑迄の距離が約32km、中間に富士山新五合目に向かう分岐(標高1500m)をピークに16kmイーブンのマニアックなルートである。

富士山スカイライン概念図
中間に新五号目に上がるルートが有る
赤丸地点が峠付近


富士山の裾野をラウンドするのだから、R469をそのまま御殿場まで行けば良いのだけれど(上記の概念図の富士山こどもの国のグリーンライン)Kさん提案のオプションルートに悲鳴をあげたのは言うまでもない。
蓋を開けてみれば、いきなり13箇所のヘアピンカーブ、平均勾配は6.4%で一部10%オーバーも有り、終わりの無いヒルクライムは気を失うほどだった。
(大袈裟では無い)
途中「ふれあいの森林パーキング」でトイレ休憩して、新五号目分岐を過ぎ、峠までの最後の登りもきつかった。
後は御殿場までの長いダウンヒルでリフレッシュした。(何度もいう様だが寒い)GPSデータを確認してみると御殿場に下りる太郎坊付近に「英国旅客機遭難者慰霊碑 」なるものを見つけた。
1966年3月5日に英国海外航空のボーイング707型機がこの付近の上空で乱気流に巻き込まれ墜落し、124名全員が亡くなられた航空事故である 。
そんな大きな事故があったとは、僕が幼少の頃なので全く記憶に無い。

R138(須走道路)に合流して「道の駅すばしり」でしばし休憩で軽い食事を摂った。
此処でもまた、Kさんからオプションルートの提案があった。
ここから東の明神峠をラウンドして、改めて籠坂峠へ向かうのだと言う。
明神峠も2020年東京オリンピックのロードレースのコースになっている。
Kさんは行きたかった様だが、次に来た時付き合いますと僕は速攻却下した。
それでもここから山中湖までは「籠坂峠」を超えていかねばならない。
峠までは約6kmで高低差は281mなので平均勾配は4.7%か。
そんなにきつい登りでは無いがゆっくりと登っていくと、前方にローディが1名先行していた。
後続にも1名いて、ハイペースで僕達を追い抜いて行った。
先行のローディには直ぐに追いついてしまい富士山スカイラインを登ってきた身としては、抜き去る元気も無く、暫く同じペースなので付いていくと声をかけてきた。
「微妙な距離ですね…」確かこう言ったと記憶している。
そこから会話が始まった。
「どちらから?」長野市からと言うと、「何時に出て来たんですか!」とびっくりしていたが、朝霧高原前泊で、スカイラインを超えて来たと言うと納得していた。彼は朝、平塚から来て三国峠を回って帰ると言っていた。
気温は10℃ほどで寒さを感じていたが、彼はレッグウォーマー無しのレーパン(レーサーパンツ膝上の短パン)一丁だった。
都会のローディは寒さを知らないのか?
籠坂峠に着くと、彼は休憩すると言うのでお互いの安全を祈って別れた。
後は山中湖迄2.4kmのダウンヒルである。
山中湖畔の信号旭日丘でR413となり、西に行くか東に行くかとKさんに聞かれたので、左(西)へ行くと応えたものの、サイコンのナビには、あらかじめルートを右(東)に設定していたのでナビに従った。
山中湖は観光地である。車の渋滞とおしゃれな建物、湖畔に群がる人々で活気に溢れていた。

山中湖畔にて
ご覧の通り富士山は雲の中


渋滞の脇をすり抜けてそのまま素直にR138に向かえば良いのだけれど、Kさんの指示に従い、何故か桂川が注ぎ込む湖畔から県道715に右折した。
標識がありこの道は「富士吉田山中湖自転車道線」の一部だと知った。

真っ直ぐ行けば良いのに何故か遠回り

忍野村あたりを迷走し、「道志みち」と呼ばれるR138に復帰して暫く進むとバイパス道路になり、交通量が一気に増えた。
富士急ハイランドのジェットコースターの鉄柱の高さに圧倒され、信号ストップが頻繁になりストレスとなった。
そろそろ疲れてきた頃、道端にキノコや農産物の販売と軽食が取れる露店があり、小腹が空いたので給水も兼ねて立ち寄った。
Kさんが松茸のおにぎりセットを食べると言うので付き合ったが、小さなおにぎりと紙コップ半杯のお吸い物で700円とは恐れ入った。

松茸とはいえ具のないお吸い物
子供のゲンコツ程のおにぎり
これで700円である。

いつしかR139も勾配が増して、周りの建物が無くなって都会の雑踏も消え雑木林の景観となり、起点の朝霧高原へと進路を定め、信号ひばりが丘で県道71富士宮鳴沢線へ右折した。
暫く長いヒルクライムが続き、フィニッシュラインとしては最後の試練となった。高原野菜の農道を迷走し、再びR139に合流すると道の駅朝霧高原に14:17到着してフジイチは完了した。
帰路、甲府市「上九の湯ふれあいセンター」に寄り、ひとっ風呂浴びて高速に乗り、自宅迄無事戻った。

 Bird’s eye view

あとがき

フジイチを終えた後、片付けをして帰路に着いた。
精達ブルーラインR358を甲府インター迄戻るのだけれど、この道はその昔、富士市で住宅建設の現場工事で何度も往復した。
当時(1995年3月)は地下鉄サリン事件があり、オウム真理教のサティアンが上九一色村にあって、夜、峠を超えて下ると真夜中の暗い山中に、煌々とサーチライトに照らされて、捜査の真っ最中だった。
この年の1月には阪神淡路大震災もあった。
当時は富士市の旅館にいて、明け方大きく地震で揺れたのを覚えている。

それより数年昔、富士山五号目から滝沢林道をMTBでダウンヒルした事があった。それはJMA(日本マウンテンバイク協会)が主催したイベントだった。
当時は心底MTBにのめり込んでいて、当時付き合っていた彼女と参加した。
当時はジョントマックというレジェンドがいて、僕もアメリカンブランドのマングースを手に入れて乗り回していた。
ジョンはMTBにフレアーのドロップハンドルを付けてクロスカントリーレースにも出ていたので、速攻真似して当時のイベントに参加した。
結果、ダウンヒルオンリーにはドロップハンドルは疲れるだけで無用の長物であった。
今はカンチブレーキからVブレーキ、そしてディスクへ、サスペンションもエラストラマーからオイルへ、ギアのシフトはワイヤーから電動へと進化している。
当時は進化の過程で本当に良い経験をしたと思う。

富士山には一度も登ったことが無い。
一度は登ってみたいとは考えているけど、何故か実行されない。
その昔、山岳会で出会った富士山観測所で働いていた気象庁の人と出会った事を思い出した。
富士市出身の彼は実家に帰る度に日帰りで富士山を往復していた。
それぞれ地元には、日帰りピストンの良い山があると思う。
それが富士山とはとても羨ましく思った。
五合目まで車で上がれるので山好きなら射程距離である。
彼は長野時代に、雪崩業務従事者レベル1の資格を取得し何度か山スキーに(彼は山ボード)同行し雪について色々と勉強させて頂いたが、今はご無沙汰しており元気だろうか。
今回の記事を作るにあたり色々な思い出が蘇り、とても懐かしく思い出してしまった次第である。
                   


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