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#勇気の芸術 3 『ねっこ』

とめどなく言葉がでてくるときもあり、反対に全く出てこないときもある。
創造的な生活を送れるシーズンもあるけど、反対に『やるべきタスク』という柵のなかで活動しなきゃいけないシーズンもある。

一週間単位で変わるときもあるし、それより短いときも長いときもある。上下左右にウロウロとする自分に「そんなときもあるよね」と思えるようになったのは、2020年の始めくらいからだと思う。

偶然なのか?コロナと同じときだ。


2018年に起業したもののじわじわと崩れていき、こっぱみじんに。そのあと回復し始めたとき。

本当に学びになる瞬間ってこの辺りのシーズンだと思う。


『ねっこ』

前回、記事にした『人間力』。

そのねっこにあるのが『知覚』

自分の感じる力=知覚が本来、
喜びや痛みのもとにはあるということなのです。


『知覚』はもちろん自分の中にあり、
自分の中からやってくるのだと
思われているのですが、
今まで言葉にしてこなかっただけで、
実は、結構多くの人が感じてきたような
曖昧さがあります。

また、AIとかデータとか、そういったことを書いた本が巷には溢れかえっているのに、それなのに結局はこうした人間の持つ感覚や生命力の話になることは珍しくないようです。

知覚。

例えば、
「美味しいと感じるものは、本当に美味しいのでしょうか?」

これはなにも他人に同調された「美味しい」について話したいのではないです。
(これはこれでツラツラと話せるけど、浮世っぽい話になるのであんまりおもしろくない)


話はもっと自分ごとにしたいのです。
もう少し深く、違った視点からの話をえぐってみたいと思います。

食べるという受け身側のことではなく、
つくるという差し出す側に立った視点では
どうでしょうか。

あなたが美味しいものを見ず知らずの人につくる機会があれば、これはなかなか緊張することではないでしょうか。

あなたがつくった料理と引き換えに相手からお金をもらわなければいけなかったり、あなたが美味しい料理をつくる人か、まずい料理をつくる人か評価されて記録にのこったりするのであればなおさらに緊張するはずなのです。


「私は美味しいと思うけど、それは他の人も一緒なのかな?」

「不安だからもう一度確認しよう」

「もう一度」

「あれ、なんだかわからなくなってきた」

と、
誰かに料理をつくったことがある人なら、
そんなことではないでしょうか。

あなたがつくった美味しいものは、
相手の美味しいとあいまみれるのでしょうか。

美味しく作れる料理レシピなんかはとても便利で、料理を始める人にとってはとても有効だと思います。

しかしながら、
レシピ通りにつくっていれば必ずしも相手が喜んでくれるとは限りません。
今日の天気や、食べる人の体調や欲しい量、そして食べたいタイミングがあるからです。それらを空気のように感じながら取り込み、一つ味を足したり引いたりするところに、本当の美味しいへの境界線があります。

相手から発信されている情報をナマでさりげなくひろいあげ、自分のひと手間を決める。
これが料理屋のカウンターの方が美味しいモノが食べられるからくりです。

誤解を生まないようにいいますと、レシピは必要です。
レシピの価値は「美味しい料理を知るため」と、
もう一つは「まずいと否定されたときのイイワケ」ができるのです。

だからノウハウは売れるのです。
ノウハウは便利で、イイワケができるのです。
良く売れます。

しかしその一方、『自分の知覚』を奥に押し込んでしまったり、
せっかくの挑戦と『知覚の鍛錬』の機会を逃がしたりという危険を孕んでいるといいたいのです。
誰だって一所懸命つくった料理をまずいと言われるのを避けたいはずです。

料理の話は一つの例ですが、
更に絵画などの芸術作品や、音楽やお芝居など舞台でくり広げられる「感動」の中身について開いてみましょう。

つづく


ときどき昔の詩
『大きくって大きなカラ』



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